作曲家とセラピストを切り替えながら気付いたこと

最近の生活ーセラピストと作曲家、演奏家の両立


最近、セラピストとしての顔の合間に隙を作っては、作曲作業をしている。

セラピストの顔、そして毎週日曜に実家に行くときの完全な音楽家(演奏家)の顔、それから作曲をしている時の作編曲家の顔、それから更には、日々の練習の時間をとっている時の演奏家の顔。この切り替え、顔というよりも時間の構造化的な意味での切り替えをもう少しぴしっとしていきたい、というのが、今の(凘銀の)課題となっている。


自分のその時のポジションで、作曲がまるで変わること

今日の記事は、作曲家の顔でいる時のこと。

これをしている時、同じように曲を作っているのだが、セラピストポジション(セラピスト的スタンス、セラピストの顔のままでいる時、などというのだろうか…)で作った曲と、完全に音楽家の顔に切り替えることができながら作った曲と、全く毛色の違う音楽が出来上がることに気付く。


また、更に後で気付いたところでは、セラピスト的土台を持ったままだけれども音楽家の顔に自由に流動的にどこにでもいられるような時(あるがまま?)、これまたできあがる音楽の毛色が全く違うことに気が付いた。


いや、何やら、確かに、セラピストとしてしっかりと活動を始めてから、もしかしたら凘銀が主軸として繋がってからかもしれないが、作られる音楽の質はなんだか変わってきた。

ある意味、なんだか不可思議な、ものが加わった感じの。

これは、もしかしたらクラシック音楽的な素地が少し離れてしまって忘れている部分が出てきているかもしれない、もしかしたらセラピスト的論理的(左脳的)なものが出ているのかもしれない、もしかしたら凘銀の現段階の心の問題が影響して現れているのかもしれない、もしかしたらどちらかといえば精神病理を扱うような脚本の作曲をしているから敢えてわざとそういう方向に出ているのかもしれない。


その辺りはまだはっきりしない。

だけど、セラピスト脳、音楽家脳、流動的脳である時の音楽の質が、明らかに違う。

これは面白い。と同時に、コントロールできない内は非常に厄介なことでもある。

恐らく、脳の使い方が全く違うのだろうね。


五感でキャッチした刺激を脳が理解する仕組み

一説として、とはいえあまり科学的な説明はできないけれど、感じていることがある。

まず、音楽が作られる時だって、さすがに本当に何もないところからぽっと生まれ出でるわけではなく、脚本を読んだ時の瞬間やら、その時受けた何らかの刺激や記憶・経験などから来る刺激が元でそのレスポンスのように音楽が生まれていくのではないかと思う。

この前提のもとに話す。


人というのは、視覚にしても聴覚にしても、五感というのは、全て自分の主観で受ける。

つまり、人が見ている(感じている)外界というのは、全て自分の主観であり、いわば自分の想像の産物の世界だ。

私達はこれをわかりやすくするために、視覚を例に説明することが多い(凘銀が、対象物を見えない人間の場合はこのように受け取るのだということを見えている人に説明して違いを感じさせることによってわかりやすい気付きになることが多いため)のだが、今回はさらにちょっと端折って説明をする。


例えば人の目というのは、まずレンズがあって、物を見るという現象は、まずそのレンズに”光”が入ってくる。

その光が、理科の光の実験で良くある図のように、上下が交差しながら(語弊があるけれど今はこの原理を説明したいわけではないので端折ります!)目のレンズの奥にある網膜に”映る”。

そしてその網膜に映ったただの”映像”を、この目の持ち主がどうやって認識するか。

まずこの映像すらもそのまま脳へ送られるわけではなく、まず電気信号に変えられる。

それが脳の視覚野まで到達して、そしてこの電気信号を脳が理解できる形に(私らは実はここのメカニズムをもう少し知りたい)処理する。その処理というのは、言うなれば脳が理解できる形に”意味づける”のだ。

映像を伝えるための暗号(電気信号)を、脳がその脳なりのやり方で解読・解釈をするといってもいい。

そして、その解釈、意味づけに使われる材料は、その脳が持っている記憶である。

つまり、目で物を見ようとする時、まずその”対象物に当たった光が跳ね返ったもの”が目に入る(この時点で既にその”対象物”自体を見ているわけではない!)、それで入ってきた暗号を、脳は、「この入ってきた暗号はどういう意味かな」と一生懸命、イメージし、意味づけし、「この形は一体何かな」と、過去の記憶から意味づけできる材料を必死で引きずり出してきて初めてその「見えているものが何か」を特定するわけだ。


更に、人間の場合は「言語」というものが非常に影響力が大きい。

見えたものが「机」であったら、それが机であると認識するために、脳の中に同時に「つくえ」という文字列や言語が出てくる。見たものがまず脳の中で言語化(心理学的にはこれは言語化とは言わないが)されるのだ。

逆に、この時に見えたものでわけがわからなくて意味づけされることができなかったものや、信じられない現象が起きたような時や、脳内での言語化をされなかったようなものは、「見たという記憶には残らず」どんどん流れ去っていく。

少し脱線すると、だから人間は、もしかしたら普段からもっともっと理解の及ばないもので、例えば巨大すぎる天使の羽だったり(実際ある聖典では天使は巨大すぎて人間に理解できず見えないと言われている)、宇宙の奏でる壮大な音楽であったりが見えたり聞こえたりしているのかもしれない。

普段から視界に見えていると自覚できているもの以外にも、実はありとあらゆるものが見えているのかもしれない。

実際に普通の人には見えないものが見えるといわれている人たちもいるわけだ。そういう人たちは脳で”意味づけ”ができているから見えている(自覚できる)だけなのかも。

あまり脱線しすぎないようにしたいが、昔テレビ番組でこんな実験があった。オーディエンス何人かに、普通の家族の普段の生活をしているつまらないビデオを見せる。この時、オーディエンスには、後でこのビデオの中の母親がどんな順序で何をしていたか説明してもらう、と伝えておく(つまりみんな母親の動きを一生懸命追って覚えようとする)。そして、その中で、突然そのビデオの映像の中で、画面いっぱいに右から左にはっきりとした大きなゴリラがしかもゆうゆうと歩いていく映像が重ねてある。

しかし、ビデオが終わった後、みんな何の違和感もなく母親の動きがどうであったかを答えるだけで、信じられないような映像が流れて行ったことはまるで気付いていないのだ。

実は…という話をすると参加者たちはみんなびっくり仰天し、もう一度ビデオを見ると、今度はもうはっきりと、人間より大きなゴリラの映像が画面いっぱいにのんびりと横切っていく映像がはっきり見える。どうしてこんなものに気付かなかったのか?!みんな自分の感覚を疑う。


この実験は、人は自分が意識を向けているもの(見たいもの)しか見ない(認知しない)のだという実験として行われていた。

しかしこれも、台所の隅をカサコソ動くゴキブリの映像だったら見えたかもしれない。

つまり、家庭内のほっこりした家事の風景のビデオの中で、誰も人間よりでかいゴリラがのんびりと歩き去って行くなどと思わない。つまり、”脳が意味づけ”できないものが映ったともとれるのではないか。


”意味づけ”される前の世界とされた後の世界、”意味づけ”された上でできる芸術と反射的にできる芸術

…まあ、今回はこれで話をもとに戻そうと思う。

つまり、人間は、知覚したもの(刺激)をまずイメージ化し、言語化することで「認知」するのだ。


私達は、芸術を見たり聞いたりしている時、例えば音楽を聴く時、大きく2つのパターンがあるように感じている。

何かわからないけれども何か頭で捉えてしまう、例えば聴こえてきた時楽譜の上に音符が羅列してあるようにしか聞こえてこないような音楽と、聴いた瞬間惹きこまれて無意識的感覚(イメージ)の世界に一気に投げ出されるような音楽。

もちろん、これは極端な例えで、それぞれにもいろいろなパターンや段階があるのだけど。


これを、仮説として、刺激を脳で受け取って既に”意味づけ”された後で芸術作品に転化されたもの、と、刺激が”意味づけ”される前にそのままレスポンスを打ち返すかのように作品としてぽんと出されたような芸術。

この2つの違いではないか。と。


もちろん意味づけされることが必要な作品もある。どちらが良いと言っている話ではない。


そして、私たちの体感として最近得たものを考えると、この仮説は少し強力に思えてくる。

セラピストポジション(左脳状態、言語脳、解釈/ちなみにこれを顕在意識状態とは言い切れないところがまた面白い。深いトランスセラピーをした後でもそうなのだ)が抜けないまま作っている音楽は、どうにも何やら作り物っぽいというのか、理屈っぽい。

世界に意味づけされたような音楽。


それが、…実は音楽家ポジションの時はムラがあるのだけど、多分その中でも作曲家ポジション、演奏家ポジション、理論家ポジションなどいろいろあるのかもしれない。しかし、何かが入った時は、あれ?なんでこんなのが出てきたんだろう?どうしてこんな曲になったのだろう、と後で思うような曲になる。

恐らくこれは、刺激をそのまま受け取って脳で意味づけされる前に反射的に打ち返してできたものなのではないか、と。


それが最近流動的で自由なポジションになった時、更に不思議な感覚で「ほー…こうなったか」みたいな。ここはまだ説明できない。

敢えて説明できるとしたら、深いトランス状態(ゾーンに入った状態)のまま、作れるようになってきているのだろうか。それか、どんなポジションにもとらわれず、ただただ私、という存在のままに、ある意味開き直ってまな板の上の鯉の状態で作っている、というのか。


セラピストとして、作曲家として、今の”人間の私”としての新たな挑戦

ちなみにこの切り替えを、今回の脚本での作曲に活かせそうだと挑戦をしている。

脚本の最初のうちでは、まだ世界観がそれぞれにステレオタイプであったり凝り固まったり、心の交流がない。

その時は敢えてセラピスト脳で(…実は、敢えてというよりそうなってしまっていた成り行きもあるのだけれど)。

その後だんだん世界がひっくり返ってきたり感情が直に出て来たりした時は、右脳状態で。

更にはいろいろなものが交錯してきたり、表面的なものではなく深い部分(トランス的)の交流になったり、全てが統制されてきた時、流動状態で。


作曲もセラピーだな、と。


…まあ、もちろん、どんな新たな挑戦に飛び込もうとどんな大きな口を叩こうと、日程的な期限というものがある。これに間に合わなければどうにも意味がないので、実際の作曲作業にうつろうと思う。


つらつらと、備忘録。


みう

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