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ダニーデンのネバーランド

クライストチャーチのプリシラの元を出発した私は、学生街のダニーデンへと移動しました。大人になりきれない若者が生息する街は、大人になることを忘れてしまったピーターパンの姿が見えるかのようでした。


サイモンは私がステイしている家族の長男で、歯科医学を学んでいる。彼のいる場所はダニーデン。最近、フラットを変えたという。

「今度のフラットは以前よりもっと広くて、景色もよくて、学校から近いんだ」

とマイクが言っていたっけ。
私はChristchurchからDunedin(ダニーデン)までの景色は退屈だ。ただただもう、だだっぴろい大地が広がるだけ。右手に雪山を見ることが出来るのかもしれないが、わき見運転はご法度だ。空はちょっぴり雨模様。だけど、雲の切れ間から青空が見える。これは..。

思ったとおりだった、目の前におーきな虹が出現した。しかも2重の虹だ!まるでこれから先はハッピーランドだよって言っているみたい。きっと、楽しいことがあるに違いない。うーん、気分がいい。

虹をくぐると、その先は晴れだった。目の前を雲の影が移動していく。

Christchurchがだだっぴろい、平らな景色なのに比べて、ダニーデンは坂だらけだ。古めかしい建物がひしめき合って建っている。何気ないビルもクラッシック調で、とても異国的情緒に溢れている。石畳の道路の向こうに、一際古い、背の低い建物がある。そこに、この街のインフォメーションセンターがある。

私はインフォメーションセンターの場所だけ確認して、素通りした。次に、サイモンの住所を確認する。うーん、ロンドンストリートかー。げっ。すっげー坂じゃん!あんなところ登りたくないなぁ…。でも、とりあえず場所は確認しなくちゃ。ロンドンストリートは長い長い坂だ。そこを登って、右折してUターンをして左折して、もと来た道を戻る。なるほど、サイモンのお家はこのへんなんだな。わかった。じゃあ、このへんの路上駐車場に車を停めて、連絡しよう。

3時間分のコインを入れて、フードコート(レストラン街)に入る。電話を探すが見当たらない。アイスクリーム屋のお兄さんに電話の場所を聞く。

「あそこだよ。ほら、あそこ。この指の向こう」

あー、あったあった。どうもありがとう。
柱にくっついている電話まで歩いてい行く。

ややや!
遠くで見た時はわからなかったけど、なんだよ、これ。すっげー高い位置に電話がついてるじゃん!こんなのどうやってボタンを見ればいいんだよー。

自分の背の低さが哀しかった。そもそもこの国では、私には到底届きません、というシャワーの蛇口、棚、その他にもいろいろと私を困らせる高さがある。私がステイしている家の電子レンジでさえ、私にはちょっとキツイ位置にある。

サイモンに電話をする。サイモンは待ちかねていたかのように電話を取り、今どこにいるの?と聞いてくる。ちなみに、彼の英語はとても早い。外人に合わせてゆっくり話すという概念がまるでないのだ。フルセンテンス聞き取るのに苦労するときがある。

とにかくフラットにおいでよ、というので、歩いてフラットまで行くことにした。サイモンはフラットの前で待っていてくれた。彼の住むフラットは、一軒家。12人の生徒がここで暮らしている。ちょっと暗い玄関から上へ上がる。階段の隅には綿ボコリがぷかぷかしている。まるで黒い雲海のようだ。階段は四角く旋回していて、中央は吹き抜けになっている。…寒い。吹き抜けには、誰かの洗濯物が海賊船の旗のように干されている。どうやって干したんだろう?階段には何本もの電話回線が散らばっている。各線は各部屋から伸びていて、一台の電話に繋がっている。電話を使いたい人は、自分の回線に繋ぎ直して使用するというシステムのようだ。

「ここがリビングルームだよ」

といって通された部屋は、改装中の部屋か、あるいは廃屋にしか見えなかった。テーブルの代わりに、板が床に置かれている。ソファはどこかのゴミ捨て場から拾ってきたに違いない。4つあるソファはすべて形が違う。しいて言えば、大きなガスストーブの存在が、ここに人が生息していることを示しているか。あ、テレビもある。しかし、やはり床には黒い綿ボコリがプカプカしている。まるで、ネバーランドに来てしまったかのようだ。

サイモンが自分の部屋に通してくれた。サイモンの部屋は、このフラットとは別世界。彼の好きなU2のポスターが壁いっぱいに貼ってあり、コンパクトでかっこいいステレオ、膨大な数のCD、広くて暖かそうなベッド、ストーブが整然と置かれている。更に、窓際には小さなソファが置ける部屋まである。ひじょうに片付いていて、日本の私の部屋など見せたら即死してしまうだろうなと思った。

「今夜、僕は彼女の家に泊まるから、のりこはここで寝ていいからね」

うわー、ありがとう、サイモン!サイモンの彼女は、日本語を操る才女らしい。彼女は9時くらいに現れるだろうから、それまで街を案内してあげるよ、と言われた。今から彼女に会うのが楽しみだ。でも、街も楽しみ!!

「車はどこに停めたの? 道路?」

うん。3時間は停められるの。オーケー、とサイモンが言った。じゃあ、僕の車で案内するよ…と言った舌の根も乾かないうちに、

「のりこ!!早く、車を動かさなくちゃ!!早く!!」

えー?一体何事だーーー?

雪が来る!ほら、あの丘の向こうを見て。雪が来る~!」

確かに、窓から見える街の向こうには、黒い怪しい雲と雪がどんどんこちらにやってくるのが見える。

私達は急いで車まで走った。ひー、寒いーーー。Dunedinは寒いーーーっ!!!
車に乗って、サイモンのフラットの駐車場まで移動する。私は知っていた。街へ行くその途中に、あの『世界一の坂』があることを。運が良ければ一時停止することもないだろう。運が悪ければ…。

私は今、世界一勾配の急な坂を上り始めている。

もう、2速でもギリギリだよ。一速だよ、一速!運の悪いことに私の目の前には2台の車がいる。こいつらがうすのろだったら、私は一時停止しなければならない。

こいつらはうすのろだった。

バックミラーを見る。ああ、後ろからBMWがやってくる。まじかー。来るならなんでもっと安い車が来ないんだー。停まりたくない、停まりたくない、停まりたくないーーー!!!

私はクラッチを切って、ブレーキを踏んだ。サイモンが「落ち着いて!」と言って、サイドブレーキを引く。

「いいかー。息を吸ってー。落ち着いてーーー」

GO!!
恐らく、ホイルスピンしていたと思う。私の車はエンストすること無く発進した。坂の頂上を右折して、もう一つの坂を下る。はぁ、これが再び坂を上がるんじゃなくてよかった。今の運転で、どれだけクラッチ減ったかなぁー。

Dunedinでのメインイベントは終わった。

私にとっては終わったようなものだった。世界一の急な坂で、坂道発進が出来たんだ。もう思い残すことはないよ。車を駐車場に停めて、サイモンと私は大学まで徒歩で行くことにした。霙(みぞれ)が降り始めた。うー、寒い。

校舎はとても暖かかった。放課後なので、生徒でごった返す階段は、活気に満ちている。みんな勉強しているんだなぁ。勉学に励む若者の顔はピリリとしている。学生の波の中をかき分けて、資料室へ案内される。

先にも述べたとおり、彼は医学部に所属している。医学部の資料室。つまり、なんだ、医学に関するサンプルが山のように飾られているんだな。私はもともと人体や脳にとても興味があるので、これらのサンプルはひじょうに私の好奇心を刺激した。ホルマリン漬けの足首、顔の皮、手のひら…ひじょうに興味深い。特に人の指は奇跡だ。指だけの皮と肉を巧妙に切り離して、形状がどのようになっているのかを見せている。この小さなパートに、どれだけの神経が通っているというのか。こんなに完璧なシステムを備えた人体は、やっぱり神様が作ったんじゃないかなー。

以前から私が脳に興味があるのことを知っているサイモンは、私にスライスされた脳をプレート状の入れ物にホルマリン漬けしたものを渡してくれた。しばし、私は興奮して話しまくる。あー、医学用語の英語を知らないから、自分の伝えたいことが言えない。もどかしい。私は松果体のサンプルを手にして、自分の興味について熱く語ってしまった。サイモンはその松果体の部分も一時勉強したことがあるとのこと。素晴らしい。私の人体に対する熱い興味が伝わったのか、サイモンは"秘密の部屋"へ案内する、と言い出した。その部屋は、鍵を持っている者しか入れない。鍵を開けた。ドアのノブを回したところで、サイモンが振り返った。

「本当に大丈夫?」

大丈夫だよ。ぜんぜん平気。

ドアを開けた。ツンとした薬品の匂いが鼻につく。
目の前にシーツをかけられた物体が安置ベッド(?)の上に乗せられていた。サイモンがシーツを剥ぎ取る。

ジャジャーン。

半身が切り取られた死体がそこに横たわっていた。見れば老人だ。
その他にも灰色の棚に、手首や足がゴロゴロと乱雑に置かれていた。どれも本物だ。特別な薬品につけてあるので、腐敗せずに保存できるようになっている。それにしても、大売出しみたいに置かれているじゃないのー。

どれも興味深いものばかりだった。
サイモンがもう出ようという。そうだよね。そもそも部外者は立入禁止なんだしさ。

人体の奇跡に感激したまま、外へ出る。さ、さぶい。
外は冷たい雨に変わっていた。夜には雪になるのかな。

フラットに戻って、サイモンの彼女、アナを待った。
サイモンはネバーランドのリビングルームでテレビを見ている。私はPCに向かって情報をまとめていた。

ガチャッ。

いきなりドアが開いたと思うと、小柄でショートカットの女の子が、驚いたように私を見下ろした。

「アー、ハジメマシテ、ワタシノナマエハ、Anneデス。アの、サイモンサンハ ドコニアリマスカ?」

サイモンさんはリビングルームにあります。

すごい

.......まぁいいか。

しばらくして、アナとサイモンと私は『東京』という日本食レストランで食事を済ませたあと、お別れした。

一人の部屋、一人のベッド。もしかして、ニュージーランドに来て初めてじゃないかなー。本当に一人になるの。私はベッドに腰掛け、キーボードをカチャカチャと叩きながら、再び人体の不思議を思った。

霙(みぞれ)が窓を叩く。Dunedinは寒いです。

(つづく)


私は幼い頃から人体に興味津々でした。小学校に上がりたての頃に私は初めて一人で電車に乗って、少し大きな図書館を訪れました。その時、胎内にいる胎児の写真の載った本を見つけ、私は興奮してそれを借りました。「子供はコウノトリが運んでくる」などと間違った知識を持った大人たちを正さねばならないと思ったのです。後に家族は「この子はきっと医者になる」と喜んでいましたが、現実はこの体たらくです。

ところで、文中のAnneが言った「すごい」という言葉は、英語では”Cool”を訳したものです。あの頃のNZの若者は何かにつけて”Cool”を乱発してました。いいね!とかすごい!とかイケてるね!とかそういう気持ちを表現する時に使います。私はこれを敢えて「すごい」と表現するのが気に入って、今でも「すごい」という言葉をよく使います。

noteでは「すごい」の一言で表現することは(語彙)と指摘されそうなのですが、コメントではよく使います。おんどさんの記事のコメントで使うことが多いような気がしますw

#緊張の坂道発進 #後ろからBMWとか #どんな修行なの  

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