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「縁側」を考える -「する」と「いる(ある)」と。-

「ぼくはいろんな地域で人の居場所になる”縁側”をたくさんつくりたい。老若男女、いろんな境遇の人たちが気ままに集う、縁側のようなやさしい場所を。」(前回投稿より引用)
 
前回life in LIFEの紹介の際、これから自分がつくりたい場を「縁側のような」と表現した。文章を書きながら、自分の「縁側観」をもう少し書いてみたいと思ったので、もう少し言葉を重ねてみたい。
※前回の投稿:「合同会社life in LIFEについて

【縁側のイメージ。 Less Is More.】

この動画は、先日佐渡島の滞在していた古民家で撮ったもの。まだすこし肌寒く感じる風を受けながら、ウグイスをはじめ様々な鳥の鳴声と春色の太陽の中で、坐ってぼーっと過ごす。縁側と聞けば多くの人が「そうそう、こんな感じ」と思うイメージだと思う。
 
ぼくは、この空気感が好きだ。無条件に「ふう」と一呼吸おいて自分に戻っていくような豊かな時間を感じられる。一人でいても色んなものたちと共にいる感覚が心地よい。
 
“Less Is More(「少ないほうが豊かである」)”という言葉が好きだ。
 
無理に何かを埋めようとせず、目の前にある時間に只自分の身を投げ出す。何もしない余白から生まれるクリエイティビティや、あるがまま在っていいという起点から生まれるその人のバイタリティや”その人感”が、いつの間にかその場に居合わせた人たちの中に生まれているような場。縁側にはそんな力があると思う。
 
また、縁側ではこのような静的な時間だけでなく、人が自然と集って賑やかに場がひらけていくような動的な時間も生まれる。

縁側という“内”と“外”の間にあるからこその、ほどよい解放感(開放感)と安心感で、自然に人が繋がって、何かが生まれる予感がするような磁力を持った場。(「間」の話も書きたくなるけど、長くなるので今回は割愛w)
 
いずれの縁側的時間も共通して言えることは、からだがのびのびと心地よく、気兼ねなく自由に過ごしていられる、誰しもがそこに只いるだけでつくられている場であるということだ。

【「する」と「いる(ある)」と。】


縁側での時間のように「只そこにいる」、「そのままの自分(=自己)としてある」という感覚は、日々の中でどのくらいあるだろう。

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。 
國分功一郎(2015),『暇と退屈の倫理学 増補新版』, 太田出版, p36

國分さんの『暇と退屈の倫理学』の中で引用されているパスカルの言葉。ほんまそれ。日々ぼくたちは、仕事の時もプライベートの時もなんだかあくせくと何かを「して」いて、休まる暇がない。
 
仕事では常にタスクに追われ、テトリス状態の予定表をなんとかこなしながら、気づけば日が暮れ(それに気づかないこともざらにある)、いつの間にか1日が終わり、休みの時は休みの時で、何かしないともったいないと言わんばかりに、予定をつくって何かを「する」。

何かしていないと自分や人生に意味がないかのごとく、とりあえず動き続け、刹那的な満足感を重ねている。
 
「目的」・「意味」・「計画」・「評価」・「成長」・「能動」…現代社会で大切だと教え込まれるこのような社会通念(パラダイム)。

このような土台の上で、無意識のうちに「何もしない、何もしていないことには価値がない」という強迫観念に駆られて、なんかしなきゃと行動している感覚。でも、どこかに満たされなさを感じている自分、何か違うんだよなと違和感を持つ自分もそこにいる。
 
『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』という本からも。なるほどと、共感の一説。

生存が危うくなり、「いる」ことが脅かされる。すると、子どもはお母さんの機嫌をうかがったり、お母さんを喜ばせようとしたりする。ウィニコットは、そういうときに「偽り」の自己が生じるとしている。
東畑開人(2019),『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』, 医学書院, p57
 「僕らは何かを「する」ことで、偽りの自己をつくり出し、なんとかそこに「いる」ことを可能にしようとする。生き延びようとする。」
引用同上

子供が主語になっているけど、子どもを“自分”、お母さんを“上司(なんでもよい)”と置き換えると、多くの人の当てはまるんじゃないかな。
 
こんな今、何にも追われず、何も考えずに、一人でぼけ~っとする。ふらっと旅に出る。無思考でただからだを動かす。意識・無意識を問わず、外側の世界に合わせていたこころとからだを解き放って、あるがまま「いる」時間は、重要さを増しているように思う。
 
良くも悪くも何かを「する」ことが価値づけされた世界の中で、何も「しない」こと、その人そのものの存在がそのまま受容され、只そのまま「い」ながら、自分自身をゆるやかに“問いほぐし”、自分の本来性から生きるきっかけをつくることが、大切なのではないかと。

【あるがままの罠】


なるほどたしかにそうだ、と思ってくれた人がいたとして(それはとても嬉しい!)、「明日からあるがままの自分でいよう」や「明日からあるがままの自分でいこう」のように、できるのだろうか。

「力を抜く、リラックスするというのは「何かをする do」ということのではなく実は「やっている何かをやめる undo」ことなのだ。どうやらわれわれにとっては「する」ことよりも、「やめる」ことのほうがはるかに難しいらしい。」
藤田一照(2020),『現代「只管打坐」講義 そこに至る坐禅ではなく、そこから始める坐禅』, 
佼成出版社, p61

 この一説は示唆に富む。たしかにそんな感覚がからだに内蔵されている気がする。
 
また別の観点から、例えば「どうぞ自由にしていいよ。」と言われると、無意識に「自由にしなきゃ」とからだがこわばって、逆に緊張してしまうような体感覚。

「あるがまま在る」ことを「しよう」とすると、途端にぎくしゃくしてしまうようなジレンマ。言葉遊びのように聞こえるかもしれないけど、感覚的に起こることのように思う。からだは正直。

「あるがまま在る」が、「あるがまま在ら“なきゃ”」と変換されることで起こる罠。こうなるともはや、あるがままではない。

「ただわが身をも心をもすなわちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」
藤田一照(2012),『現代坐禅講義 只管打坐への道』, 佼成出版社, p374

 この本の中で引いている曹洞宗の開祖 道元禅師の言葉で、これを一照さんは“これは云為でなされる坐禅のありかた”(同書p379)と語っている。

突然の坐禅の話でなんのこっちゃと思うかもしれないけど、ここで坐禅は、“つまり、作りごと一切なし、ありのままでいるその坐禅のときのありようが自分の正体、実物である”(同書p69)と表現されている。

※云為とは、“思慮分別を離れて自ら発動してくる自然な行ないのこと”(同書p156)
 
外的な力に合わせて何か「し」たり、自分の意思を持って何か「する」ことなく、肩の力を抜いて何も「しない」ところに初めて、あるがままの自己が浮かび上がってくるということ。

つまり、あるがままの自己は「あるがままで“なくてもいい”」という感覚、自分に対する許可を伴ってこそ自分に近づいてくる。「こうあられば」「しなきゃ」と無意識に自分を縛っている囚われを手放しているところに生まれる。
 
「あるがままであってもいい、なくてもいい、そして只そこにいる」という、一見「ん?」というこのロジックの中で存在することが、あるがままである感覚に近いような気がする。仏教用語でいう「中道」の世界観。「しない」とは、そういうニュアンスで居ることなのだと思う。
 
その時、人は自分を制限することなく自由だ。自由に自分の持つ可能性を解放し、その人の持つ本来のエネルギーが発揮される。

※個人的な感覚としては、子どものころ無邪気な頃の自分の感覚とか。目的や意味なんてないけど、楽しい、心地いい、そのままで大丈夫と世界を受け入れて、昼夜全力で活動しているパワフルな状態。
 

【最後に】

するとかしないとか、あるがままとか色々と書いたけど、この手の話は、本当は体感でしかない。その場にいてその状況をからだで感じないとピンとこない。いつも言葉にしきれないなと、自分の言葉力にやきもきする。
 
いずれにしても、自分を縛っていたものやいつの間にかできていた殻が、自然とゆるむことで、本来の自己に気づき、そこから生まれる生き生きとした未来が生まれる場をたくさんつくれると嬉しい。

「縁側」って、それを自然と引き出してくれるような、とても受容性に富んだ場だと思うのです。 

「人生いろいろあるけどしょうがねえ、ささ、そこに座って。まあお茶でも一杯。」

そんな感じで、縁側を個人や企業、地域問わずさまざまな人に届けていきたい。

【おまけ】


色々と自分が大切だと思っていること、思いの丈を書いてきたけど、最後にこんな言葉も残しておきたい。

「ぼくは、真実とか真理という言葉が嫌いだったのだろう。
(中略)
真理があると思っているよりは、みなイリュージョンなのだと思い、そのつもりで世界を眺めてごらんなさい。世界とは、案外、どうにでもなるものだ。人間には論理を組み立てる能力がかなりあるから、筋が通ると、これは真理だと、思えば思えてしまう。人間といういきものは、そういうあやしげなものだと考え、それですませてしまうこと。それがぼくのいういいかげんさだ。
(中略)
人間の認識する世界はそういうものだと受け止めるいいかげんさがないと、逆に人間はおかしくなるのではないか。」
日髙敏隆(2010),『世界を、こんなふうに見てごらん』, 集英社, p28,30

 あるがままについて、書きながらふと、こんな言葉を思い出した。

自分が大切にしたいことの探究を深めながら、一方では、するりとそれを手放して、「いいかげんに」に、自由自在に実践する。

こういう距離感でもって、自分の大切にしていること含めて世界とともに在りたいと思う。

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