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自己否定についての考察(Ⅰ)——はじめに、自己否定者の思考・行動様式

[全体の目次]

1.はじめに
 ⑴.自己肯定者と自己否定者
 ⑵.本稿の展開
2.自己否定者の思考・行動様式
 ⑴.頭の中の濾過装置——自己否定のフィルター
 ⑵.自己否定的努力
 ⑶.誇大な自己像
-----ここまで記事(Ⅰ)-----
3.自己否定フィルターの作用
 ⑴.すべてを自己否定的に解釈することの恐ろしさ
 ⑵.強迫的な努力と休むことに対する罪悪感
 ⑶.対人関係における視野狭窄
 ⑷.一人の過ごし方もわからない
-----ここまで記事(Ⅱ)-----
4.自己否定フィルターの形成
 ⑴.過去に受けた心の傷
 ⑵.親子関係の問題——親に甘えることができなかった子ども
  a.親子の役割逆転
  b.「親が子に甘える」とは?
  c.精神的に未熟な親に育てられた子ども
 ⑶.友人関係や恋人・夫婦関係の問題
 ⑷.いじめ
  a.「いじめはなぜ起こるのか」という問題
  b.被害者の孤立無援状態 
 ⑸.ハラスメント
-----ここまで記事(Ⅲ)-----
5.自己否定フィルターの無力化
 ⑴.自分の心の傷を自覚する
 ⑵.心の傷を癒す
 ⑶.自分が求めている言葉を自分にかけてあげる
 ⑷.自己肯定フィルターに差し替える
 ⑸.長期戦を覚悟する
6.おわりに
-----ここまで記事(Ⅳ)-----


 1.はじめに

 ⑴.自己肯定者と自己否定者

 例えば何か失敗をした時に、「失敗しちゃったなぁ……。何がいけなかったんだろう……」とか「バカなことしちゃったな……。次から気を付けよう。同じ失敗はもうしないぞ」と思える人は健全である。しかし、これに対して、「失敗しちゃった……。なんでこんなに自分はダメなんだろう……」とか「自分の愚かさが嫌になる……。こんな自分には価値がない……」といった思考に陥る人もいる。果たして両者の違いは何であるか。

 結論から言えば、目の付け所が違う。前者は、自分がしてしまった ”失敗” の方に目を向けている。すなわち、あくまで自分がその時にした ”行動” がいけなかったと評価しているだけであって、自分という存在それ自体にそのような評価を下しているわけではない。これに対して後者の目は、失敗をしてしまった ”自分” の方に向いている。つまり、自分という存在自体がいけないものだと思っている。

 後者のような思考を、一般に「自己否定」と呼ぶ。本稿は、この自己否定について、筆者なりに経験を踏まえて考えてみたものである。

 ⑵.本稿の展開

 本稿は、合計4つの記事から成る。本記事は、その第一である。記事(Ⅱ)では後述の自己否定フィルターの作用について、記事(Ⅲ)では自己否定フィルターの形成原因について、記事(Ⅳ)では自己否定フィルターの無力化について扱うという展開になっている。

 なお、以下の点につき予めご留意願いたい。
 ➀ 筆者は学生であり、心理学の専門家ではない。むしろ、昨年末に心理学の勉強を1から始めたばかりのド素人である。だから、理解が誤っていたり不足していたりすることも多いだろうし、わかりづらく読みづらい体裁や文章になっていることもあると思う。
 ② また、本稿は、筆者なりにこれまで勉強してきたことをアウトプットする場としての役目もある。したがって、今後の勉強で考え方が変わる可能性も十分にある。

 2.自己否定者の思考・行動様式

 ⑴.頭の中の濾過装置——自己否定のフィルター

 「自己否定」というと、様々なものを想像できる。1⑴で述べたような思考は勿論であるし、他にも、例えば友人関係なら、「自分なんかに仲良く接してくれて申し訳ない」とか「自分は友達だと思いたいけど、きっと相手には迷惑だろうな」とかいった心情が常に付きまとう。好きな人ができたとしても、「自分なんかに好かれても相手には迷惑なだけだ」「相手にとっては気持ち悪いだけだ」と思ってしまう。

 しかし、これらはすべて表面的な現象であるに過ぎない。友人や好きな人に対して上のように思ってしまうのは、自分という存在について基本的な否定的評価を持っているからである。つまり、そもそも「自分には存在価値がない」「自分は生きるに値しない」という否定的な思考が無意識の前提にあり、それをフィルターとしてすべての事象を頭の中で濾過してしまうから、結果として、あらゆる眼前の出来事について自己肯定的な解釈の一切が排除されてしまうのである。

 ⑵.自己否定的努力

 ところで、努力には2種類あると筆者は思っている。成功すると失敗するとにかかわらず安全・安心が保障されているとわかったうえでする努力と、失敗すれば死ぬという恐怖を伴う努力である。これらを自己認識の観点から見ると、できようができまいが自分には価値があると認めたうえで「自分ならできる」と思ってする努力と、「これができなければ自分には価値がない」と思ってする努力とになる。前者を「自己肯定的努力」、後者を「自己否定的努力」と呼ぶことにしよう。

 自己肯定的努力は、仮に目標が達成できなくとも、その人に満足をもたらす。悔しい気持ちも勿論あるが、それに執着しすぎることはない。「価値がある自分」が努力した結果として、「頑張ったね、偉いよ」という声を自分にかけてあげられるからである。これに対して、自己否定的努力は、仮に目標が達成できたとしても不満足を残す。なぜなら、頭の中には、「失敗しなかった……」という安堵と、「ここができていればもっと良い結果だったのに」という反実仮想しか残らないからである。自己肯定的努力のような「やった! 成功した!」「すごい! できた!」という積極的な喜びの感情はほとんどない。

 ⑶.誇大な自己像

 先に、自己否定者は自分という存在自体に目を向けていると書いた。「失敗をしてしまった自分」がいけないものだということは、裏を返せば、「失敗をしない自分」はそうではないということである。同じように、「愚かな自分」に価値がないということは、裏を返せば、「愚かでない自分」には価値があるということである。したがって、自己否定者の頭の中には、「自分は失敗をしない人間でなければならない」「自分は愚かでない人間でなければならない」という誇大な自己イメージがある

 失敗や愚かさを一切持たない存在は神だけである。しかし、人間はもとより神ではない。「まだやれた」「ここは納得できなかった」といった部分は必ずある。それにもかかわらず、自己否定者は⑴で述べたような自己否定フィルターを通して世界を見ているから、彼がどれほど努力をしても、彼の目には常に、そのような不足している部分ばかりが映ってしまう。つまり、自己否定者は、自分が人間であるという事実を無視して、神になろうとしているのである。だから、「頑張っているのに報われない」「成功しているはずなのに満たされない」という気持ちになる。自己否定的努力を続ける限り、その人は永遠に満たされることがない


→「自己否定についての考察(Ⅱ)——自己否定フィルターの作用」
に続く。


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