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なぜ依存しない生き方かって?自分を守るためにそうしているだけ。

依存しているとか、依存から抜け出したいとか、依存されたいとか
つきまとう”依存”と共存していく生き方が多種多様な中で、
私は、
「依存しない、執着しない」生き方で、自分を守りながら生きている気がします。

1人の人間にどっぷり浸かる。
自分にとって揺らがない一番大切なコミュニティがある。
ということが今までの私には無いのです。

なぜ私は執着心があまり無い?
一人に依存していない?
それは私が一人一人に対して興味が薄い人間だからか?
自分よがりで自分のことだけを考えていたい人間だから?
と考えていました。

しかし”人に興味がある”自覚がありました。
この矛盾している感覚が腑に落ちなくて。
自分がよく分からない。


悶々としたその答えに最近気が付いた気がするのです。


きっと、1つの物事に執着するのが、1人の誰かに依存するのが私は怖いのではないかと。
つまり私は常に自分で保険を作りながら生きているのですね。
バランスを取りながら自分の精神的な健康状態を保とうとします。

悩みたくないことで悩むという、私にとっては無駄なエネルギーを使いたくないから。
そのために自分に自分で機嫌をとる。


それはどういうことかと言うと、

1つのコミュニティの中で上手くいかないことがあった時、自分が安らぐ他のコミュニティをこしらえておくのです。

例えば、私の実体験として、ものすごくハードでしんどい部活動で、部員内で雰囲気も悪くなっている時期。部活行くには足が重い。
しかし、学校の教室に行けば休み時間ごとに馬鹿笑いできる友達と過ごせる。

そんなこんなで、1つの「学校」という居場所に、憂鬱も楽園も持ち合わせ、自分を鼓舞し、学校に行きたいと思えるエネルギー源にしているのです。

全力で頑張っている部活動だけが私のとっておきの居場所なら、亀裂が入っている時期に、私は心が平穏でいられないかもしれない。
だから常に自分が楽しめる、安心できる空間(私にとっての保険)を作る努力をしている気がします。


これは一人と関わる時に対しても同じで。
大親友を独り占めしたい独占欲には駆られたことがありません。それは、どうしても奪われたくないと考える大親友が、私との関わり以外のコミュニティの中で最大の楽しみを見いだしていたら、私はまたもや心が平穏でいられないかもしれないから。

私は、違う話ができる友達を多方面に散りばめているような常態で、
A子とはあそこに行くのが楽しい。
B子に今日の話を聞いてもらいたい。

こんな感じで友達との関わりを自然に作ってきているようです。
(私のほとんどをさらけ出せる友達もいますがそれは少数・・・)

Instagramのストーリーで親友が他の子と楽しそうに遊んでた写真が載っていた時、
私は、「お!楽しそう!」
と感じます。もちろんプラスの感情です。

きっと、私以外の人と楽しんでいるのは気分が良くない。とストーリーを見て思う人は多かれ少なかれいると思うのですが、一人への束縛を持たない私には、相手の楽しむ情報が苦になることはないなあ、という。

自分が平穏に生きていけるように、バランスを取っています。

それが人と関わることでなくても
自分の精神的な健康状態を保とうとしています。

それは「今日を無事に終える」状況を作り出そうと必死だからなのかもしれません。
熱中できる何かや、その時に楽しめる何かを自分の保険として持ち合わせている状態を作り出すのです。

今日は憂鬱な1日だからこそ、朝ご飯に自分の食べたかったケーキを食べる。

就活でしんどいから、好きなドラマを1日1本ずつ観ていく。

周りのみんなが遊んでいる中、自分は毎日学校に行って疲れてきた。だからnoteを1日の楽しみとして自分のために使う。


何でもいいから、ほんの少し、何か楽しみがあると私は心に余裕ができます。

自分じゃない他人の、毎日のいかにも充実してそうな、謳歌してそうな人生を羨ましいと思うことは無限に湧き出る感情であるし、自分が持っていないもの、努力しても手に入らないものはずっと憧れとして輝き続けるけれど、自分が持ち合わせた人生をどうやって自分の思い通りに作り続けていくか、
それしか自分が満足できる方法は私にはない、と思っていて。

たかが、たった1日を繰り返してこなして消化していくだけなのに、それがこんなにも大変なのだから、

遠い未来に大きすぎる楽しみや幸せがあったとしても、そこに辿り着く前に息切れして諦めてしまいたくなるから、

自分が遠い向こうばっかりを見据えなくて済むように、今日の楽しみに目を向けられるように、私は楽しいと思える瞬間を作る努力を怠りません。
やはりそれは自分のため。それだけ。


自分が生きるために、こんなにも自分に配慮しようとしていたなんて、なんか必死過ぎて、そんな自分に驚いてしまったけれど、

”特定の何かに依存しないスタイルで機嫌をとっていく”

これが私には明日が来ることに怖じ気づかない必殺技になっていたりして・・・。

どんな正解も無いし、依存が自分とどのように関わることが正しいなんてことも無いけれど、私は自分の機嫌は自分でとれているんだってことに少し嬉しくなりました。

そりゃ、時が止まればいいのにって思う瞬間もあったし、明日が一生来なければいいのにって思う瞬間もあったし、これからももっとそういう瞬間が出てくるのだろうけど、

「自分を守ること」に必死になることは意外と素敵なのではないでしょうか。


最後まで読んでくださりありがとうございます。
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