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『ただいま』(掌編小説)


 故郷の道を懐かしみながら歩いていた。
 風は都会のそれと比べて丸みを帯びており、視界の隅にはいつでも山々の影がいてわたしを見守っている。
 田舎の空は広い。有り体な話だけれど、高い建物がない田舎の空は自由だ。

 邪魔するものは電信柱と電信柱の間を駆け抜ける幾本かの細い紐だけ。それが街を、まるでわたしたちの全身をバラバラにならないよう繋ぐ血管のように、網の目の様に広がっているのだ。
 傾き始めた陽の朱色に乗って、どこかの家の夕ご飯の煮物の匂いがお腹を鳴らした。

 実家の前に広がる砂利道を歩く。深い緑色の外壁の家。その扉を開けて、わたしは少し緊張して「ただいま」と言った。

「おかえり」

 という言葉が料理をする音やテレビの音、去年の暮れに生まれた20も歳の離れた弟の楽しげな声に混じって聞こえてくる。
 わたしはほっと息を吐いた。

 手を洗って一息つくと、晩御飯だ。
 わたしの家のものとは比べ物にならないくらい大きなテレビで、いつも都会の喧騒の中で見ているバラエティ番組を、家族の会話のBGM代わりに流す。
 会話は尽きない。会話が尽きないからわたしは、普段そうしているように音楽をかけたり、無闇にスマートフォンの電源を点けたりはしない。
 そうすると、ネット社会の凄まじいスピードで進む多くの出来事が俄かにわたしから遠く遠くへ逃げ去っていった。

 いつもわたしの掌にあるスマートフォンの代わりに、いつの間にか幼い弟の手があった。
 飼い犬の背中にその手が乗せられていた。
 或いは父と母と共にするお酒の注がれたグラスがあった。

 わたしはもう一度ほっと息を吐いて、開け放たれた大きな窓から穏やかに流れ込んでくる故郷の夜風に微笑んだ。



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