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みどりのゆび日記④薔薇譚

 昨冬から薔薇の世話をして気づいたのは、自分は薔薇の花が特別に好きな訳ではないということだ。いわゆる薔薇愛好家ではないのだろうと思う。むしろ花だけで言えば、予想外の場所で人知れず咲く小さな野花が好きだったりする。

 ではなぜ毎朝薔薇の世話をするのかと言えば、それは高齢病身の父が育ててきた薔薇たちに「関わってしまった」からだ。見るに見かねて手を出してしまったと言ってもいい。しかも花を咲かせるまでのプロセスがとても面倒で、それが意外に面白い。剪定時期、手作りの薬、肥料の配分、オベリスクの選び方、、かまいすぎても放っておきすぎてもダメで、その関係性を試されるのは子育てやケアと同じだなと思う。むしろギリギリ放っておくくらいが花はいちばん生き生きしているが、つい構いすぎて失敗してしまう。

 葉が虫に食われることは自然の循環なので目に余る限りは気にしないことにしている。薔薇にも個性があるので一本づつアプローチが変わる。老若男女いると思う。それはどこか対話と似ているなと思う。相手の出方を「きく」こと、そしてよく「みる」こと。「きく」は専門だけれど「みる」も奥深いと気づく。見る、観る、診る、視る、看る、ミル。

 薔薇の花は美しい。けれど花は結果でしかないと思う。薔薇の愛好家なら剪定するような”汚い花”があっても、咲いた限りはなるべくそのまま。咲いてくれたことにまずは感謝する。
 一歩離れてみれば、薔薇が咲いている「庭の風景」には違わないからだ。

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