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私たちはなぜ”1人で”飲みに出るのか


私は1人で飲みに行くこと好きです。


同世代(20代)にこの話をすると「1人で行って何するの?」とか「友達と行った方が楽しくない?」というように結構、否定的な言葉が返って来ます。無論、大人数の飲み会も好きだし、むしろ率先して行くタイプです。ただ、同じくらい1人で飲みにいくことも好きなだけです。


間違いなく自宅で飲んだ方が安上がりですし、自分のペースで飲むことができます。終電も気にしなくてよいし、なんなら部屋着で飲むことができる。なのにあえて外で飲む。


私たちはどうして外で”1人”で飲むのでしょうか。

今日は、そのことについて考えてみたいと思います。


私たちは”役割を脱ぐ”空間を求めている

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私達が1人で飲む理由として考えられるのが、無意識的に脱役割を希求しているということです。


私たちは日常生活において、常に何かしらの役割が与えられています。


例えば、職場では「上司」や「部下」という役割(肩書き)が与えられています。他にも「先輩—後輩」という役割、もっと言えば「株式会社○○の社員」という役割も与えられています。そこでは、個人の意見(本音)を押し殺して会社員として意見(建前)しなければならない場面もあるでしょうし、逆に過度に部下を褒めるという演技性が求められる場面もあると思います。


一方、自宅に戻れば「上司」や「部下」という職場での役割を脱ぐことはできますが、今度は「父親」や「母親」という役割が求められます。そこでっも同様に、子ども達に父としての威厳を見せないといけない場面もあるでしょうし、逆に子どもの悩みをしっかりと聞いてあげる優しい父親を演じる場面もあると思います。


このように、私たちはTPOに応じて数多の役割が与えられ、その役割を演じながら生きています。


しかし居酒屋やBarなどの飲み屋さんでは、こうした役割を”すべて”脱ぐことが出来ます。純粋に一人の”お客さん”として平等に扱ってくれ、そこには上下関係がありません。「上司」として振る舞う必要もありませんし、「父親」としての威厳を出す必要もない。

「”お客さん”という役割を担っているじゃないか!」


という声が聞こえてきそうですが、この役割は、電車に乗った時の「乗客」やイベントに参加した時の「参加者」と同様で一時的なものです。そのため「上司」や「父親」、「男性」といった恒常的に与えられている役割と比べて根本的に異なります。そこについては後日ゆっくりと書きたいと思います。



私達は、このように「役割を脱ぐ場」、もっと言えば「生身の自分で居られる場」を無意識的に求めているのではないでしょうか。


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私たちは”生身の自分”を承認されたい


また別の理由として考えられるのが、人は生身の自分に対する承認欲求がある、ということです。


今、「生身の自分でいること」が非常に難しい世の中になっています。


上記のように私たちは、日常生活において会社員、父親、上司、母親といった様々な役割が与えられています。そしてこの役割は多くの場合、簡単に脱ぐことが出来ません。なぜなら、すべての人々が期待される役割とは無関係に「ありのままの」立ち居振る舞いをしてしまったら、秩序が保たれなくなってしまうからです。


会社で父親のような立ち居振る舞いをしてしまったら、会社として機能しませんし、逆に家庭で部長のような立ち居振る舞いをしてしまうと、家庭は崩壊してしまいます。


つまり私たちは「今は、ありのままの自分だ!」と思っていても、心のどこかで歯止めをかけ、社会に寄せた立ち居振る舞いを行っているといえます。


一方、居酒屋をはじめとした飲み屋という空間においては、こうした社会(秩序)が通用しない場です。日常生活に寄せた立ち居振る舞いをする必要がない、とも言えます。(当然、限度はありますが)


そのため近しい人には相談できない悩みを打ち明けられますし、少々酔いつぶれても、お酒をこぼしても受け入れてくれる。場違いな発言をしてしまってもある程度は、受け入れてくれます。

※当然限度がありますし、何より「粋」ではありませんので、ご注意ください。

私たちは、こうした「生身の”私”を受け入れてくれる(=承認してくれる)空間」として理解出来ます。



まとめ


今日は、私達が”1人”で飲みに行く理由について書いてみました。


私達が”1人”で飲みに行く理由
・私たちは役割を脱ぐ空間を希求している。
・私たちの生身の状態を承認してくれる。


昔は上記のようなアジール(避難所)的な役割を持った空間がたくさんありました。近所の駄菓子屋や公民館などが当てはまります。しかし、少子化や経営者の高齢化などで、こうした空間は徐々に減ってきてしまい。近年では、居酒屋やBarなどの飲みさんしか無くなってしまいました。


だからこそ、私たちはこうした日常生活の役割を脱ぎ、生身の”私”を受け入れてくれる飲み屋さんを求めて”1人”で飲みにいくのではないでしょうか。


今日は、ふと思ったことを書いてみました。

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