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こもれびより ~commoré-biyori~ vol.12「 ”訳す”という仕事 ~外国語が生業になるまで~」(2020/8/15) レポート

 2020年8月15日(土)、翻訳家・通訳の平野暁人さんをゲストにお招きして、こもれびよりVol.12「”訳す”という仕事 〜外国語が生業になるまで〜」を開催しました。何かと物々しい状況の中お越しいただいた平野さん、そしてご来場者の皆さま、誠にありがとうございました。

 当日はこもれびの塾長・志村を司会進行役とし、平野さんに「お仕事のこと」、「語学のこと」、「教育のこと」についてお話しいただきました。いつもならこの記事では、報告者の言葉で適宜要約して当日の様子をお伝えしているのですが、今回はせっかくの「グルーブ感」溢れる平野さんのお話ですので、ほぼ「撮って出し」のような形でお届けしたいと思います。とは言え、ほぼすべてのやりとりをテープ起こししたところ3万字近くなり、さすがにそれをそのまま、というのも大変ですから、ダイジェストでお送りします。では、どうぞ。

* * *

①−1 お仕事について〜舞台芸術の現場から〜

- 志村
 まずは、お仕事についてからお聞かせください。​

- 平野​
 私は、舞台芸術の通訳を主にしています。通訳と翻訳、両方やっていて、翻訳は出版もやるし戯曲もやるし、昔は映像もたくさんやりました。
 舞台芸術というのは皆さんご存じだと思いますが、「密」です。「俺たちは密が仕事なんだよ」って感じで、『密を避ける」とか言われると、もう「働くな」ってことになってしまいます…。もちろん、疫病は仕方ないですよね。疫病は誰も悪くなくて、みんなができることをしなくちゃいけないので、舞台の人たちも、とにかく今はやれることをやろう、協力しよう、ということで、しばらくはおとなしくしていました。
 でも、この状況が年単位で続く可能性もあること、だんだんと新型ウイルスに関する情報が整理されてきたことから、舞台芸術の世界でも、段階的にできることから再開していこう、ということになりました。もちろん、可能な限りの防疫措置を徹底的に実施しつつ、ですが。ただ、そうは言ってもフランスやイタリアから演出家が来られる状況というのはもう年内には絶対にないですよね。そうすると、できることって、あるのか…?ってなって、まぁ、Zoomなわけです。Zoom対談企画とかはいっときたくさんやったんです。日本の演出家とフランスの演出家をつないで、みたいな。でもそろそろ稽古もやらないといけないだろう、という感じになってきました。

 今関わっている仕事は、日本人の演出家が、フランス人の舞台美術家を入れて、日本人の俳優とやる、という作品です。
 舞台美術は相当前倒しで作っていかなきゃいけないので、最初はZoomでしばらくミーティングをしました。本来であれば、もちろん来日して作るわけですよね。だけど来日予定がダメになってしまったので、ここまでで終わりかな、と思っていたら、Zoomで作業を続ける、ということになりまして。
 ですが、いざ始まってみても仕事がないわけです。あのですね、演劇の現場なんて、予定通りに進まないんですよ、だいたい。しかも、今回は舞台美術だから、毎日打ち合わせをするような性質のものではないわけです。事前に打ち合わせて、作業の進捗に応じて適宜すり合わせをして、また工房に戻って、という風にして進めていくものなんですね。なので、待機していてもそうそう毎日仕事があるわけでもなくて。数日経っても「なんか毎日日本語ばっかり喋ってるな…」状態。もちろん、最終的にはちゃんとZoom打ち合わせをしましたけども。
 ただ、Zoomって色味がわかんないですよね。この中にそういうお仕事をされている方がいらっしゃるかはわかりませんが、Zoomで見せても、舞台美術家っていうのは自分のイメージしている発色になっているかどうかがわからないんですよ。陰影とかね。やっぱり、「Zoomを通して見た色」でしかない。たぶん、ネットショッピングで、届いてみたらちょっと違ったな、みたいな経験、皆さんもあると思うんです。「もうちょっと深い色かと思ったらずいぶん明るかったな…」みたいな。ああいうのが避けられないので、ほんとにZoom打ち合わせには限界があって。それを試される感じです。いかにフランス語を駆使して言うか、っていうことを。何せこっちは待機時間ばかり長くて全然しゃべってないので、すごい下手なわけです。「あああ」ってなりながら、「えっと、これは、だから、Zoomだから、この色ではない」みたいな…。「たぶんもっと明るいか暗いかする」みたいなすごい雑なことを言って。しょうがないんですけどね、非常時だし。結局、実働時間はかなり短かったです。
 ほんとはね、毎日フランス語でバリバリ喋りまくって帰京して、今日この会場に着く頃には無意識でも口をついてフランス語が出ちゃう、くらいの仕上がりを想定してたんですけどねえ。「Bon, alors…あっ、失礼」みたいな、感じ悪いトークを展開しようと思っていたんですけど、まぁ、フランス語なんか出てきやしねぇ、っていう感じです。やっぱりね、日本語、楽。ふだん通訳ばっかりやってる人間からしたら、こういう日本語のトークは本当に楽。まず、間違えないし。他人の言うことを訳すってことは、間違えるのが当たり前。どうせ、他人の言ってることなんかよくわからないんだから。今こうやって聞いてたって、「なんか今のところ、ちょっとよくわかんなかったな」って思っても、皆さん自分の中で取捨選択しながらトークについてくるわけじゃないですか。あんまり深追いしてもわかんなくなっちゃうから。人間が話を聞く時っていうのは、受動的になんとなーく聞いているようで、実はそういう作業をほとんど無意識にやりながら聴いてるんですよ、本来。でもそれは母語だから難なくできるわけで、外国語でそんなことやろうとすると、もうどんどんわかんなくなっていくわけです。でも今日はさ、「俺が正解」だから。​

①−2 お仕事について〜翻訳と通訳の違い〜 

- 志村
 平野さんはしばらく「翻訳家」と名乗っていらっしゃって、最近やむなく「翻訳家・通訳」と名乗るようになったと聞いたのですが、その経緯だったり、翻訳と通訳の違いについて、その仕事を生業にされている平野さんからお話しいただけたらと思います。

- 平野
 翻訳と通訳の最大の違いは、翻訳は、「家でゆっくり辞書を引ける」ということです。それに尽きます。わからないことをちゃんと調べて、ネイティブに片っ端から当たることもできます。それもちゃんとした見識を備えたネイティブ、文学なら文学の専門家、ダンスならダンスの専門家とかに聞いて、これはどういう意味なのか、ということをやって、精度を極限まで高めて出せますよね。
 それに対して通訳はもう、どんどん球が飛んで来て本当にバッティングセンターみたい…ならまだいいんだけど、バッティングセンターと違って自分が球種や速度を設定できるわけじゃないから、あらゆる球が飛んでくる。通訳はとにかく出て行ったらやるしかなくて、「ちょっとわかんないんでいったん引っ込みまーす」とかいうことはできないですよね。特にトークイベントの通訳とかだと。
 
 私はとにかく、翻訳をしているから翻訳家かな、と思って、「翻訳家」と名乗り始めました。親も翻訳家ですし。フランス語ではなくて、違う言語なんですけどね。でも、翻訳家だって言ってるのに「通訳もしてくれ」ってすごく言われるんです。演劇の世界には、お金がないんです。(客席に向かって)みなさん、お金もないのに、おまけにあんなに世間から叩かれてかわいそう…って思って帰ってくださいね、今日は。まあとにかく演劇の世界はお金がないんですけど、通訳エージェントとかに発注すると、一日すごい額がかかるんです。芝居の稽古って長いと朝から夜までやったりしますから、それに全部通訳を付けて定価を払うと、どんなに安い人でも、1日5万円とか、ちょっといい人だと10万円近くかかっちゃうんで、無理ですよね。だから私みたいに、翻訳家だけどしゃべるのもけっこう得意だよ、っていう人は「通訳もやってくれませんか?」って言われがちなんですよ。翻訳の仕事が来て、通訳もできますか?みたいな感じでやります。ちなみに私は必ず、「やります」と答えます。「できます」とは言いません。確実にできる人が欲しかったら、通訳エージェントのSランクの人を呼んでください、ということです。まあ極めて特殊な分野なので、実際には通訳エージェントのランクが高い人だからすらすらできる、というものでもないんですけどね。
 
 もう少し語学的に踏み込んだ話をすると、私は翻訳の要領で通訳をします。つまり、場合によっては、元々の発言者が必ずしも言っていないことも言います。この人が一番伝えたいことを、「この人はこういう言い方をしているけど、絶対それじゃ伝わらない。こう言った方がいい」というように勝手に足したりします。これは非常にリスキーなやり方で、経験に裏打ちされた極めて慎重な状況判断が必要です。本来なら許されない。通訳学校とかでは絶対やってはいけない、と言われているんじゃないかと思う。これが会議の通訳だったり、契約・ビジネスで大きなお金が動くとか、国と国との緊張関係がそれで変わるとか、そういう場面では、少なくとも勝手に足すのは許されないですよね。踏み込んだ訳で窮地を救ったって人の話は聞きますけどね、外交官とかで。でも、勝手に足すことは普通ダメ。
 だけど、やっぱり、パフォーミング・アーツの世界では、いかに核心部分を抽出してお客さんの心を捉えるか、っていうことがいちばん大事なんですよね。すごくちゃんと訳しても全然わかんないことってあるんです。正確に訳しても、何を言わんとしているのかがよくわからない、ということが起こりうるのです。例えば、同時通訳の場合は最短の時間で最大の射程を持った言葉を選んで出していくことで、リスクマネージメントとして、「間違いからいちばん遠い」訳を作っていくんじゃないかと思う。あ、もちろんしっかりした原稿や資料が事前に渡されている場合は別ですけど、なんせアートの現場はけっこうぶっつけ本番みたいな現場も多いので。でも、それは言い換えれば、ジェネラルな言葉で、広い意味を孕んだ安全な言葉にどんどん置き換えていくということだと思うんです。そうすると、作品づくりや演出の意図に踏み込んだ話などになると、極めて正確には訳出されているんだけれども、必ずしも痒いところに手が届ききらない、というような現象も起きかねない。まあ僕は同時通訳はおろか通訳訓練というものを一切受けたことがないので、すごく勝手な物言いをしていますけれども。
 で、そういう状態に陥っている事例をいくつか目にするうちに、すくなくとも舞台芸術の現場では、翻訳のやり方で言葉を足して通訳する自分のやり方も間違っていないんじゃないかな、と思うようになったんです。そして、あまりにも通訳の仕事が増えていくので、観念して「翻訳家、通訳」と付け足すようになりました。

②−1 語学について〜話すことと書くこと〜

- 志村
 ここからは、もう少し話を広げて、そうしたお仕事の手前にある「語学」の話をお聞きしたいと思います。通訳・翻訳のお仕事をされているということは、「語学のプロ」でもあるということで、演劇や舞台よりも身近なものとして語学はあると思います。
 平野さんとお話ししていると、例えば韓国語のお話をされる時に、まるで何かが憑依したかのようにいきなり韓国語が出てくることがあります。さらには、韓国語ならまだわかるのですが、どこぞの日本の方言がバーッと出てくることもあって、そのたびに「すごっ」っと思うのです。僕はそんな芸当できないので。
 もっとびっくりなのは、僕はいわば「普通」に語学を勉強してきた人間なので…「普通」という言い方に語弊があることを認めた上で、「普通」に勉強してきた身としては、「しゃべれることは書ける」と思うんです。何語でもいいんですが、後天的に、座学によって勉強したものというのは、自分の口から出てくるものというのは書けるよね、と思うんです。ですが、平野さんの場合、書くのがとにかく大変だ、という話をされていて。​

- 平野
 言語学をちょっとでもなさった方ならご存じかと思うんですけど、記号と音というのは恣意的な契約関係ですよね。つまり、この文字はこういう音、とか、この文字はこう読むもの、という決まりが初めから文字に内在していたわけじゃない。もしそういう内在的な決まりがあって、最初からこの文字にはこういう音しかありません、という本質主義的なものだったら、例えばボツワナに行って、日本人に生まれて初めて会った現地の人にいきなりひらがなを見せても、ちゃんと「あいうえお」と読めるはずです。でも、知らない人は読めないわけですよね。ということは、そこには当然、恣意的な契約関係があるわけです。「この文字はこう読む」と決めて、それがだんだんと共有されてきた、ということ。だから、文字は邪魔だな、と思っているんですね。
 だいたい、色んな発音の人がいますよね。同じ言語の同じ単語でも、人によって発音に幅がある。だけどそれを全部同じ記号(文字)で表現するわけです。そうすると、ますます根拠がないな、と思うわけですよ。「この音はこの文字を使って表現しましょうね」という約束事を共有したうえで言語というのは運用されているんだけど、こっちは音から先に覚えているので、毎回「この音は世間的にはどの記号で表す決まりになってるんだっけ?」ってなっちゃう。
 だから、例えば韓国語教室に行くと、他の生徒さんと比べて、あっという間にしゃべれるようになるわけです。まぁ、こっちは外国語のプロなのでそうじゃないといけないんですけどね。それで、ペラペラしゃべって、周りの人から「この人なんでここにいるんだろう、早く上のクラスに行ってくれないかな…?」と思われたりするんですけど、文字を使って問題を解きましょう、というターンになると、途端にさっぱりわかんなくなる。でも、しゃべっている時に間違いを指摘されることはほぼないんです。フランス語でもそうです。ということは、正しい音が出てるはずでしょ。少なくとも、コミュニケーションの阻害要因になるほどかけ離れた音は出していないはずなんです。まあ必ずしも良い発音ではなくても、文脈に照らして理解してもらえている部分もあるかもしれませんが。だから、本当に、いつまで経っても正しく書けない。最近なんか、めんどくさくなって、韓国語の問題集を解いていても、わからないところはカタカナで書いたりしています。それで丸付けして「うん、合ってる」って。​

 いいですか皆さん、今日これだけは覚えて帰ってほしい。みんな、全部を正しくやろうとしすぎです。例えば、「新しく出てきた文法事項を練習しましょう」という問題で、綴りも全部合ってなくちゃいけない、というところまでやると、挫折します。タスクが多過ぎる。「綴りは間違ってるけど、新しく出てきたこの文型が使えてるから正解でいいや」とか、あと私の場合は、「設問者はきっとこの文型を使ってほしかったんだな」というところで全然違う文型を使ったりしても、でもこれはこれですごく近い意味になってるからOK、って感じでどんどん進めます。
 もちろん文字がまったく読めないのでは困りますから、書くのはある程度目的に応じて、どうしても手書きをきちんとしないといけない必要がある人はやった方がいいかもしれませんが、自分の必要に応じてできるところから、あと大事なのは楽しいところからどんどん伸ばしていった方がいいので、「文字、邪魔だな。いったん後でもいいか」というのもアリなんですよ。​

②−2 語学について〜大事なのは何語?〜

- 志村
 また少し翻訳に戻ります。翻訳に関しておなじみのテーマなのですが、「翻訳するのには何語が大事なのか」議論というのがあります。例えばフランス語の文章を日本語に訳す時によくあるのが、「日本語至上論」です。「翻訳をやる人というのは、日本語が達者な人であるべきだ」という話を聞くことも多いです。一方で、日本語ができたって、当然その対象となる言語が十分なレベルになければ、翻訳なんて夢のまた夢なわけで。一概にどちらがどちらより大事か、ということは言えないかとは思うのですが、そのあたり、いかがお考えでしょうか。​

- 平野
 どっち、というのはなくて、当然両方とも大事なのは皆さんわかっていると思うんです。なので、ちょっと見方を変えてお話しすると、日本語の重要性を過大に捉えている人が多過ぎる、というのはありますね。つまり、そりゃ外国語はできるでしょ、翻訳家なんだからフランス語ならフランス語、英語なら英語は出来て当たり前。その前提は当然あったうえで、日本語力がないとね、翻訳はやっぱり日本語力で差がつきますよね、という話を見聞きするし、言われるんですよ。
 しかしですね、そうは言っても、絶対的にどっちかと言われたら、結局は外国語なんですよ。元の言語をどれだけ読みこなせるかどうか、これに尽きます。特に最近、主張し続けているのですが、外国語ってすごく難しいんですよ。いつまで経っても、全然わかんないんです。もう長いことやって、仕事で一応独り立ちしてやらせていただいてますけど、毎回「わかんねーよ…」って思ってます。この間も、舞台上であんまり込み入った話を凄いスピードでされたから、「はえーし、わかんねーよ!」って言ってやりました。フランス人に向かって、思いっきり日本語で。舞台のお客さんはいいよね〜。めちゃくちゃウケたもん。ウケたもん勝ちだからね、舞台の仕事はね。しかも、「わかんない」ってこっちが弱みを見せたわけだから。プロとして登壇してるのに。でも、それくらい、本当にわからないんですよ。
 だって,皆さん、日本語だって読みこなせないもの、たくさんありますよね。今、ほんの100年前の北村透谷の小説とか、辞書なかったら読めない人がほとんどだと思うんですけど、そこまでいかなくても、例えば試しに今日の帰りにでも、短歌とか俳句とかの雑誌をパラパラとしていただけると、そこに「時評」とか「季評」とか載ってますけど、知らない日本語がたくさん出てくると思います。読めない漢字とか。
 ですから、まして、外国語というのはそれを血肉として育った人たちに比べたら、いつまで経っても赤ちゃんが子どもになるくらいの成長しかしないんですよ。そこをどうやって限界まで高めていくか。逆にそこを高めれば高めるほど、つまり原文が読め解けるようになればなるほど、訳文の質がおのずと高まるんです。だって、正確になっていくから。そして、原文を支配している論理が正確に取り出せるようになるから。
 読んでも意味がわからないものというのは、たいてい、論理が破綻しているわけですよ。色んな文体があって、突拍子もないものを書く人もいるけれども、突拍子もないものだって、そこにはその人の論理があるわけですね。SFにはSFの、幻想小説なら幻想小説の法則性があって、論理性があって、そういうものに則ってその人なりのロジックで書かれているんですね。そのロジックをどれだけ読み取れるか、っていうのが、最初の勝負で、そこでほとんど決まるんです。そこは、ちょっと日本語が上手くても、絶対に変えられないんです。日本語力がすごく高ければ、論理的思考も得意でしょうから、読み取る力、理解力も多少は高まるとは思いますよ。ただ、「この文型がこういう文脈で出てくる時は、どういうことなのか」、「これは定冠詞じゃなくて不定冠詞なのはどういうニュアンスがこめられているか」、っていうのは、それは日本語力が高いからといって、最終的には補えないわけですね。
 
 これは本当に徹底的に周知しておきたいところです。私は翻訳家の息子、さらには翻訳家の孫として育ったんですけど、母は翻訳家であると同時に大学でも教えていましたから、学生さんに勉強も兼ねて下訳のお仕事をお願いしたことが何度かあって、最初は「今度の学生さんは出来がよさそうだ。なかなか読みやすい」ってご機嫌で作業し始めたのに、よくよく原文と対照させながら読んでいくと、全然違うところがどんどん出てきたりするようなことがある。それは、わからないところを日本語力で補ってしまい、意味が通るように改変して辻褄を合わせてしまっているからです。「だいたいこういうことかな〜、こうじゃないと意味が通らないもんね〜」って整えていっちゃうんですけど、「整えるべきはあなたの日本語じゃなくて、原文の理解力だから」と思うんです。そういうことが、枚挙に暇がないんですね。世の中に出回っている翻訳にも実はかなりそういうものがあると思います。なぜかと言うと、やはり、なまじ日本語力が高く、文章力がある人というのは、デコボコして、明らかに破綻しているものが気になっちゃうので、「これじゃ意味が通らないよな、読みにくいよな」というところには敏感なんです。で、それを自分なりに変えてしまって、そうすると、間違いの痕跡が残らない。ですから、すごくいい感じに訳されていると思いきや、原文全然違う、ということはあります。これはタイトルでもありますね。​

 これには逆の例もあるんです。逆の例は結構珍しいと思います。
 うちの叔母に、イタリア人と結婚して、イタリア語を専門にしている人がいます。昔は通訳をたくさんやっていて、今は僻地でセミリタイア生活ですけども、ローマに住んでいた頃は、政治家や芸能人などの通訳もけっこうしていたようです。で、ある時、翻訳もやりたい、と言うんですね。翻訳に関しては母がすごい数の本を出していたので、日本の出版社に紹介してみるけど、無名の新人だから先に1冊丸ごと訳したものを先方に提出して読んでみてもらおう、ということになりました。普通は、レジュメをつくって、企画書として提出するんですけど、無名の新人の場合は先に翻訳原稿があった方が話が通りやすいから、というわけです。
 ですが、20代でイタリアに行って、その翻訳の話が持ち上がった時点で既に40年近くイタリアで暮らしていたので、いざ彼女が翻訳したものを見るとなんかもう違うんですよ、日本語が。もうほとんど、40年とか前の日本語が冷凍保存されてるみたいな感じで、「これは、なんか、昭和初期から中期の小説みたいだな…」っていう文体で。それはそれで格調高いんですけどね。でもそれを一般書として出版すると考えた場合に、味として敢えて活かすのでなければこの訳文では出せない、と感じました。上手い、というよりは、年月が下って、別物になっているからすごい味わいがある、骨董品みたいなものです。
 しかし、最初は一読して「これじゃ出せない」と思ったんだけど、よく読んでみると不思議な読みやすさがあるんですよ。「なんか変だな…」と思いつつ、スルスル読める。それはなぜかと言うと、やはり、彼女が卓越したイタリア語の名手だからですよね。イタリア語の微細なニュアンスを的確につかんで日本語に移行している。そしてもちろん、よくわからないところは、徹底的に配偶者と議論しながら理解を深めて日本語にしている。だから、彼女の日本語は見かけはデコボコしてるというか無骨な日本語なんですけど、すごくスルスル読めて、わかりやすかったんです。その時に、「あぁ、原文が精確に読み取れている翻訳っていうのはここまで強いんだ」と思ったんです。結局、原文がちゃんと読めていれば、ちょっとやそっと日本語の表現力が足りなくても、そんなものは超越するんだ、という確信を得ました。それを本当に、今日は覚えて帰っていただきたいです。​

③ 教育について〜「いつ来ても叱られなそう」な語学塾こもれび〜

- 志村
 最後は、この場所、語学塾こもれびに戻ってきます。ここは「塾」と名乗っていて、国語とか数学を教えていて、中高生の人も通ってくれています。
 平野さんとは、最初知り合った時も何をしている人かわからなかったので、この塾の話や教育の話をしたりもしました。その時に、僕が平野さんに言われて嬉しかった言葉が、「僕が中学生の時にここがあったら、もしかしたら来たかったかもな」というものです。皆さん、今までのお話を聞いて全然信じられないと思うんですけど、平野さん、高校の成績はたしか…。

- 平野
 高校っていうか、中学、いや、小学生からずーっと、成績がほぼ最下位でした。ずーっと。中学校の時はほぼ「1」です。そしてうちの高校は、「0」から「9」だったんですよ、成績が。わかります?子どもの情操教育をなんだと思ってるんだ、って感じです。子どもの情緒を健やかに育むのに1mmも寄与しませんよね、「0」を付けるなんて。「0」ってことは、「お前は無だ」ってことですよ。「0」を付ける学校に入ってしまったのが悪かったと言えばそれまでだけど…。しかも、「9」をとっても、「9か〜」って感じで、「10ではない」。何かが足りてない感じだよね。それってさ、ただただ嫌だよね。で、その「0」を入学してすぐに、それもたくさんとって。高校1年生の1学期で赤点13個くらいとったんですよ、ってそれつまりほぼ全部ですけど。足しても足しても「0」なわけです。本当に、そういう辛い気持ちで過ごしていましたよ。

- 志村
 …というのを聞いたのが先だったか、noteの記事で読んだのが先だったかは覚えていないんですが、この塾っていうのが、ここらへんにある塾の中で、一番そういう「成績」というところから離れているところなんですね。そういう場所を知ってくださって、こういうふうに足を運んでくださって、「こんなところがあったら来たかったな」って言ってくれたというのが嬉しかったわけですが、その時の心情をお伺いしたいんです。どこを見て、「こういうところがあったら」って思ってくださったのでしょうか。​

- 平野
 う〜ん、そうですね、なんか、「いつ来ても叱られなそうだ」ってところかな…。
 ちょっと真面目な話をすると、やっぱり、子どもの時に成績が悪いと、辛いですよね。すごく辛いでしょ。しかも、劇的に悪いんですよ。変わった子なので友だちもいなかったです。そうすると、居場所がないんですね。勉強さえできれば、最低限、人からのリスペクトは得られるし、それはそれで孤独かもしれないけど、みじめな思いはしない。でも、勉強ができないと、みじめですよ、圧倒的にできないと。勉強ができない、友だちもいないと、本当に、居場所がないんですよ。
 でも、自分は、賢い子だと思ってました。賢いっていうのは人より、っていう意味じゃなくて、自分は自分でちゃんとものを考えて、判断基準があって、やりたいことをやって、言いたいことを言って、別に周りより劣ってたり間違ってたりしてないと思ってましたけど、でもいつも一人だから、居場所がない。学校にも家にもない。塾とかも形だけ行くけど、居場所じゃない。普通の塾に行っても、ただただクラス分けテストで一番下のクラスに入れられて、適当に他のやる気ないけど親に言われて来てる、って人たちと補習の授業とか受けるわけですよ。だから本当に、毎日地獄だな、って思っていました。
 そういう時に、「あなたは、点が低いからダメです」とか「友だちがいないからみじめです」とか、「人と同じテレビを観ていないからつまらないです」とか、そういう価値基準から離れたところで、いつ来ても好きに過ごさせてくれる場所があったら、それは救いだと思いませんか。それは要するに、「勝手に生きてていいよ」って、一番シンプルに言ってくれる場所だから。そういう意味で、こういうところがあったら、いつ来ても叱られなそうでよかったな、ってとても素直に思ったんですね。​

④ フランス語との出会い〜質疑応答から〜

- 質問者
 お話の中で気になった言葉が「音」というものです。平野さんがフランス語に出会った瞬間、羽化するような感じだったかと思うんですが、なぜフランス語だったんでしょうか。​

- 平野
 ありがとうございます。それはね、フランス語との運命的な出会いがあったんだよ…。
 フランス文学科以外、全部落ちたの。あのね、昔から勉強ができなくて辛かったんだけど、それ以上にまだ働きたくなかったわけ。それで、「とにかく大学と呼ばれるものに行かなければいけないらしい」と思って、一浪して、うちから楽に通えそうな、とにかく偏差値の低いところを受けたんですね。で、その中で引っかかったのが、今はなき夜間大学なんですけど、そこでフランス文学科に受かって入ったんです。

 これはね、今、面白くしゃべるための方便じゃなくてね、本当に何の興味もなかったんですよ。「だってフランス語だろ」って思って。「ボンジュールだろ。俺の人生にかすりもしねーだろ」って。特にさ、サガンとか、高校の時のクラスメイトに読んでた奴がいたんですよ。「軟派なもの読みやがって」って思ってましたね。「ゴーゴリとか読めよ、ロシア文学とか読めよ」と。そういう、攻めてる感じのものが好きだったので、フランス語なんか、うっとりした恋愛ものとか本当に興味なくて、あ、今もないんですけどね。だってさ、他人の恋愛でしかも架空ですよ。わざわざ読む必要ある?やっぱフランス文学はね、すぐ恋愛するしすぐ不倫するしすぐ自殺するから。他人の恋愛の話は、リアルだったら面白い、って言ったら語弊があるけど、関心を持つ余地もあるけどさ、架空の不倫とか、どんなに辛くても知らねーよ、とか思ってましたから。
 本当に興味がなくて、興味がなさすぎて、入学してから1年間、大学に行かなかったんです。でも、noteにも書いたと思うんですが、1浪して、入れるとこ入って、1年経っちゃったらどうなると思います?成人するでしょ。その時ね、思ったんですよ。「やべー、選挙権来る」って。
 やっぱりね、10代の頃はいいですよ、フラフラしてて。でもさ、選挙権のあるクズは本物のクズだな、と思って。皆さんもうお気づきかと思うんですけど、ちょいちょい,真面目なんですよ、人間が。だから、その時本当に思ったんです。「選挙権があってフラフラしてたら、もうダメだ」って。だって、未成年でもないし、もう何するにしたって保護者要らないんだし。
 それで、さすがにこれは人生何もしないままでいると詰むな、と思って、親に相談したんです。「もう20歳になってしまうんだけど、僕はこの先、これじゃ人生いけないと思う。何をすべきだろう?」って。そしたら、母が腕を組んで考えて、「あんた…大学行かないの?」。ハッてなって、「そのようなものがそういえば」と思って、「え〜、大学か〜」なんて思ったんです。
 でも、その時、母は偉かったですね。「お母さんは、あなたが小さい頃から、『この子は絶対に飛び抜けた外国語の才能がある』と信じていた」と言うんです。「今までは色々なことが噛み合わなくて上手くいかなかったけど、小さい頃から、どんな国の言葉でも耳から入った音を難なく口から出しているところを見てきた。だからあなたに外国語ができないはずがない。今までは今までで、これから新たに出発すれば絶対できるようになる」って。「ただ、座学はきっと向いてない」って言われて。「だから、お金を出してあげるから、アテネ・フランセに行きなさい。そこでネイティブから耳で学べば絶対開花する」って言われて。もうしょうがないからボンジュールですよ。
 だけど、本当に嫌だった。だって、周りの奴、みんなフランス語やりたがってるんだもん。こんなところにわざわざお金払ってさ、フランス語を学びに来るんだ…お前ら大丈夫か、ボンジュールだぞ、って思いながら申し込みして、最初の授業で、「じゃぁまず、みんなでアルファベから読んでみましょう」って言われて。ネイティブの人の音声に合わせて、順々に読んでいくんですね。で、自分の番になって読んだら、シーン…ってなって。「フランス人とまったく同じ音が出るんですね」って言われたんです。それで、自分もその時に「あ、これは俺、できるな」って思ったんです。やりながら、「これをやっていけば、一生困らない」って思ったんですよ、その時。なんでかよくわかんないけど。で、やってみたらスラスラできるようになるから、みんな褒めてくれるわけよ。褒められるっていいな、って。それまでの人生で知らなかった快感だから。すぐ叱られてばっかりだったからさ。しかも、勉強ができないくせに弁が立つって、憎まれるんですよ。そういう苦労をしてきて、能力と評価が長いことアンバランスだった。だけど、フランス語を始めたらみんな褒めてくれるから、「なんだ、ボンジュール悪くねーな」って思って、それから長いこと日々「ボンジュール」と言い続けています。​

- 志村
 絶対嫌がると思いますけど、いつか平野暁人自伝出すなら、タイトルは『しょうがないけど、ボンジュール』ですね。

- 平野
 え〜、何そのビミョーに『悲しみよ、こんにちは』みたいな感じ…。

* * *

 ここに再現したのは、全体の3分の1程度に過ぎませんが、文字通り「笑いあり、涙あり」のお話だったことが少しでも伝われば嬉しいです。これをお読みになって、平野さんのお考えなどに興味を持たれたら、ぜひ、noteWeb連載などをお読みになってみてください。

 次回の「こもれびより」は、2020年10月に開催予定です。その頃には今よりも、状況が落ち着いていることを願いつつ、詳細につきましては改めてお知らせさせていただきます。

転載元:語学塾こもれび Webサイト

【追記:次回のこもれびよりのお知らせ】

次回のこもれびよりVol.13は、「音の遠近感 〜「○○語っぽさ」の正体〜」と題し、10月24日(土)14時〜開催します。
発音に焦点を当て、こもれび講師の2人の母語である日本語と、英語・フランス語との間の「近さ」と「遠さ」を考えてみます。

お申し込みは、

gogakujuku.commorebi@gmail.com

もしくは上記のPeatixからお願いいたします。

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