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お前は「林檎もぎれビーム!」を聴いて出直してこい

絶望した!おれはこの現代社会に絶望した!人生にも絶望した!

なんてことを言ったところで、何かが変わることはない。地球温暖化も人口問題も解決しない。五億円が降ってくることもない。神なんていない。そうなると、もはや人間はなにを信じたらいいかわからない。「じゃあ自分を信じたらいいじゃない。」いやいや。自分のことを信じるなんて、全員ができるなんて思ったら大間違いだ。自分の軸がブレブレな僕のような人間は、すぐに自分のことを疑ってしまう。「君はどうして生きているの?」

じゃあなにを信じたらいいのか。とくに、自分のことを信じられないような人は、なにを信じたらいいのか!なにも信じられないが、死ぬのはいやだ。怖い。そうなったらフィクションに拠り所を探すしかない。フィクションとは映画とかアニメとか、いわば虚構だ。それはリアルではない。リアルではないが、それらの物語は僕を救ってはくれないにしても、厳しい毎日を生きるための解毒剤くらいにはなる。要は、一瞬でもつらいことを忘れられるのだ。

でも、そうした物語はやはりマニュアルに沿った作りものでしかない。そういう物語は、観客がどの場面で泣くか、笑うか、全部計算して作られている。それに、物語が発する希望に満ちたメッセージは、人が明日を生きる活力になるとしても、だいたい明後日には忘れている。映画とかアニメで語られる愛とか夢なんて、マニュアルに沿ったフィクションでしかないのだ。

「え?じゃあどうすんの?フィクションは希望にならないの?」
まあ、結論から言えばそうなる。この世界は、僕らがどうにもできないほど絶望に包まれている。しかし、生きていかねばならないことに変わりはない。苦しいけれども、生きるのだ。

明けぬ夜はない それが愛の仕事そして
「マニュアルなの」 
そうだ行こうぜ
絶望のわずかな 「こっちがわへ」

これは、「林檎もぎれビーム!」の一節だ。「林檎もぎれビーム!」とはなんなのか、わけわからんこと言うな!と、不思議に思う方もいるかもしれないのでひとこと付け加えておくと、『さよなら絶望先生』というアニメの第三期主題歌である。この部分を簡単に解釈すると、「明けぬ夜はない」とか希望を語るのが「愛」の仕事なのだが、そうやって語られる希望もマニュアルに則っている、いわば嘘っぱちかもしれないものだということだ。この曲は、この一節で始まる。ここからもその主張はうかがえるだろう。

君が想う そのままのこと
歌う誰か 見つけても
すぐに恋に 落ちてはダメさ
「お仕事でやってるだけかもよ」

僕はこの曲を初めて聴いたとき、思わず「これ、おれが思ってることを代弁してくれてる!」と考えてしまった。それもこの作詞者にとっては「お仕事でやってるだけかもよ」というわけで、なんだか複雑な気持ちになったことを覚えている。話が逸れてしまったが、そんなフィクションの時代にどうやって生きるのか。そんなもの簡単に答えが出るわけないのだが、僕はこの曲を聴きながら、ひとつ考えていたことがある。

それは、「フィクションはフィクションだと割り切って信じてしまえ!」ということだ。映画やアニメが与えてくれる希望が嘘っぱちであることなんて、僕らはみんな知っている。そんなことみんなわかったうえで楽しんでいるのだ。映画やアニメがくれる希望を語り尽くせ!信じ尽くせ!それと同化せよ!そこにきっと、絶望の向こう側が見える。
「信じ、叫べ、合言葉!共に、歌え、全て変わるよ!変われ!飛べよ!飛ぶのさ!」

とまあ、思いつきで書きはじめ、最後のほうは勢いでしかないのですが、『かくしごと』を見てから久米田作品にハマっております。『さよなら絶望先生』もまだちゃんと見られていないので、これから見たいと思います。ところで、『さよなら絶望先生』の主題歌はどれもアツく「絶望」を歌っていて好きですね。僕みたいな日陰者にはぴったりです…と卑屈な語りはこのへんにして、そろそろお暇します。最近はあまり更新できていないのですが、これからちょいちょい頻度を増やせたらいいな!と思っております。読んでくれたらうれしいです。




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