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「逃げる」とはどういうことか。

先日、三浦春馬さんの訃報に接し、好きな俳優さんが亡くなったことにショックを受けた。それと同時に、自分と比較的歳の近い人が自殺をしたという事実が、自分の考えていた以上に衝撃的なことであり、かつ、そのような事件は彼だけでなく、自分を含めた誰にでも起こりうることなのだと思ったりした。

「○○が自殺をした」というニュースが流れるたびに言われるのが、「辛くなったらきちんと逃げるべきだ」という意見だ。それはそうだと思うのだが、そもそも「逃げる」とは一体どういうことなのだろうか。自殺をする人にとっては、死を選ぶことが「逃げる」という選択ではないのか。死を選ぶことなく「逃げる」とはどういうことなのだろうか・・・。

「逃げろ」と人は言うが、誰も「どのように逃げるのか」を提示してくれていないような気がした。そのうち、死を選ばずに「逃げる」ことの方策について考えるようになり、僕のなかで「これかな」と思える一つの仮説にたどり着いた。その仮説について、これから書きたいと思う。

まず、この問題について考えるとき、最初に考慮すべきは、「なぜ自分から死を選んでしまうのか?」、つまりは、「誰かを死に追いやるほどに苦しめてしまうものはなんなのか」ということである。そしてその一つとして、
「自分のいる場の価値観と自分自身が離れてしまうこと」
があるのではないかと考えた。

精神的につらいときにしばしば陥ってしまうのが、ある価値観を絶対だと感じ、その一方で、その価値観に適合できない自分を責めてしまう現象だと思う。人はそれぞれに帰属(学校、会社など)を持ち、その「場」ごとのルールを内面化して生活している。それは社会生活を送るうえである程度必要なことだし、それ自体は責められることではないと思うけれど、問題は、ひとつの「場」における価値観を絶対視してしまうこと、さらに言えば、その価値観と自分自身が乖離してしまったとき、自分を異常なのだと考えてしまうことである。

これは例えば、学校において「廊下を走らない」というルールに従える子は「正常」で、ルールを破ってしまう子を「異常」だとして扱うことに似ている。このように、ある「場」にはその「場」における価値観、あるいはルールが存在し、それに適合できる人間は正常で、そうでない人は異常だとみなされるような事態が今でも生じている。(ちなみに、これは、ミシェル・フーコーという思想家の「言説」や「権力」という概念を元手にして考えたことである。これらはとても難しい概念なので、気になる人は調べてみてください。)

そんなふうに、ある「場」における価値観やルールを絶対だと信じ込み、それに適合できない自分を「社会不適合者」だと認識してしまったり、だめな存在だと考えてしまうことで、精神的な不安は生じる。『ショーシャンクの空に』という映画で、刑務所から出所したあと、社会になじめず首を吊って自死を選んでしまう老人が登場するが、これも似たような構造を持っていると思う。その老人は刑務所という「場」のルールにはうまく適合できたが、いざ社会復帰をしたらそこでの空気感やルールにうまくなじめず、他に帰属先もないなかで死を選んでいった。こんなふうに、自分のいる「場」と自分自身が大きく離れてしまったとき、また、自分の存在がその「場」にしかないようなとき、人は死を選びやすいのではないかと感じる。

さて、では、そのような事態に陥ったとき、どのように振る舞うべきなのだろう。

ある「場」において自分がどうにも馴染めなかったり、そこでのルールに適合できないと感じたら、「場」を変えることが一つの自死を選ばない手段になるのではないかと思う。「場」にはそれぞれ固有のルールや価値観があるけれど、反対に言えば、それらは「場」によって異なっているということでもある。だから、自分に合う「場」があれば、そこに移動すればよいのだ。しばしば、鬱状態になった人に対して「帰属先を増やせ」というアドバイスがあるが、このような観点から見ても、このアドバイスは理にかなっていると思う。例えば、学校のルールにうまく馴染めずに不登校になってしまうような子も、別の場所ではうまく受け入れてもらえるかもしれない。世界にはさまざまなコミュニティがあり、そのどれも自分を受け入れてくれない、なんてことは、基本的にあり得ない。

僕は一時期、軽い鬱状態に陥ったことがあり、病院で睡眠薬をもらって生活するくらいには苦しい思いをしたことがある。幸い、僕はそれから重症化することはなく、短期間で回復することができたのだが、そのときを振り返ってものすごく思うのが、「帰属」が多数存在したことの幸運である。僕もある価値観に対してうまく馴染めなかったりとか、反発したいけれどそれができないという状況に陥っていたけれど、結局はその「場」から離れ、帰属を変えることが精神の健康につながった。これが可能だったのは、ひとえに自分を受け入れてくれる別のコミュニティがあったからに他ならない。

ある価値観においては、自分は異常者かもしれない。でも、別の場所では、自分はふつうの人間として認められている。こういう意識を持っている人間は強いと思う。このように考えると、精神的に強いというのは決して背水の陣が得意なことを指すのではなく、孤独を感じないことなのかもしれない、と思ったりする。さまざまな帰属を持ち、そのどれかが無くなっても受け入れてくれる場があるというのは、決して孤独にならないということだ。そういう意味では、「孤独は人を殺す」のかもしれない。孤独に陥らないために、孤独に殺されないために、普段から自分の帰属を意識すること、それを増やすことが大切なのではないか、そして、自分の存在価値を見い出せる「場」を一つでも確保することが必要なのではないかと思ったのである。

この記事は、僕が実際に精神的に辛かった時期の経験と、現在僕が格闘している、ミシェル・フーコーという思想家の言ったことを踏まえ、頭のなかでぐるぐると考えたことである。

三浦春馬さんがどのような理由で死を選んだのか、それはわからないし、これは彼に向けた記事でもない。生きる決断よりも、死を選ばないという選択のほうが常に正しいとも思わない。僕が精神的に辛かったとき、自死を選べなかったのはひとえに死ぬのが恐ろしかったからであり、正直なところ、多数の帰属先の存在が幸運だったと感じられたのはごく最近のことである。

死を選ぶということにはそれなりの理由があるのだろうし、本当のことを言うと、少しでも自殺しようかとか思っていたときは、自殺撲滅ポスターの類など全く役に立たないと感じていた。死のうとしているとき、「ひとりじゃない」とか、「死んだら周りが悲しむ」なんて甘っちょろい言葉はふつう本人には届かないし、そもそも、本人はひとりだと感じているからそういう選択をしようとしているのだ。だから、こういう記事を書くのは過去の自分を否定するようで少し苦しい。

ただひとつ言えることは、誰にでも自死を選ぶ可能性が存在するということくらいである。そうなる前に、自分の居場所をいくつか確保しておくこと、価値観はひとつではないと知っておくことくらいは役に立つのではないかと考え、ここまで書いてみた。これが誰かの役に立つかはわからないけれど、一人でも「なるほど」と思ってくれる人がいたら嬉しいと思う。

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