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出演者と制作のリスクの不均衡

入社半年の頃、「取材相手を守る覚悟が全くできていない」と叱られた。
見よう見まねで書いた企画案を見てもらったプロデューサーに言われた言葉だ。ドキュメンタリーの企画案だった。

「面白い」企画を成立させることだけに躍起になっていて、この中で取材させてもらう人にどんな影響が及び得るか、それを全く考えられていない、という話だった。

正直、少し頭にきた。新人だけど、入社前から自分なりに一番考えてきたことはまさにそこだったし、「企画を成立させるために誰かを犠牲にする」ことに鈍くあるなんて、自分が一番耐えられないことだと思っていた。志望理由には「安全な雲の上から誰かを偉そうに批判するメディアの人間にはなりたくない。正解は分からないけど、常にビビりながら、その時必死に考えた『一番正解に近そうなもの』を恐る恐る提示する人間でいたい」と書いていた。

だけど、そのときに言われた
「私たちは、基本的に画面に映らない。私たちの撮影、演出、私たちの編集によって、カメラの前に晒されて、視聴者の反応を一身に浴びることになるのは、なんの責任もない一般人の取材協力者だ。そのリスクを本当の意味で分かっているか」
という言葉は、その後の仕事の中で幾度となく思い起こされた。
やっぱり、テレビのディレクターとしての危うさの断片を、本当の意味で感じたのは叱られてからだったと思う。

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それから、制作側がどれだけのリスクを負いながら番組を制作しているかが気になるようになった。
特に、リアリティショーという「暴かれ曝け出された人間のきたない感情」を肴にする種類の番組の多くでは、避けられない範囲を越えた、リスクの不均衡が起こっているような気がしてきた。

前述の通り、撮影者と被撮影者では、被撮影者にリスクの比重が偏らざるを得ない構造がある。

でも、それが構造として避けられないものなのだとしたら、その上でエンターテイメントとして成立させたいのであれば、必然的に相当なリスク管理の責任が制作側にはついて回るのが前提のはずだ。それを飲み込んだ上で、「制作させてもらう」権利が生まれるんじゃないか。

テラスハウスに出演していた、女子プロレス選手の木村花さんの訃報を見て、誹謗中傷の暴力性やSNSの限界に関して語る気持ちにはなれなかった。末端であろうと、誰かに大事なものの一部を世界に晒してもらうことで、ものづくりをしている人間が、その責任をどこかに押し付けてはいけないと思った。

リアリティショーの一番の危うさは、ドラマを演じる芸能人のように役名ではなく、個人の実名を使うところにあるように思う。
実名と顔で生活を丸ごと晒け出したうえで、その調理は番組制作側に全て委ねられてしまう。そうして切り取られて構成され、差し出された「リアル」が、一般人を一夜にして有名になることに耐性のない「半芸能人」にしてしまう。

「リアリティ」だけど、あくまで「ショー」だ。
厳密に言えば、ドキュメンタリーだって、カメラが入った時点で人は他者の眼を意識して何かを演じ始める。当たり前のことだけど、テラスハウスだって6人を1カメラずつ24時間追い続けて、それを全部さらってから構成を組み立てて編集するコストも時間もあるわけがないのだから、ある程度今後の予定には見当がついているし、狙っている会話や出来事の方向性が確実に存在する。その意味で、やらせの域に入っているかは別として、どんな制作物にも必ず「演出」は存在する。逆に言えば、演出がない制作物には作る理由も意思もない。

視聴者の少なくない人数が、番組には実名で出演した人の「本当の姿」が映し出されていると思ってしまったことが心ない人格否定の一因だと思うけれど、そこには確かに制作側が負うべき責任が存在する。

テラスハウスの代名詞「台本は、一切ございません」は、「あくまでショーとして楽しんでね」っていう前提を挑発的に放棄している台詞で、たしかにそれが多くの人を惹きつけたのかもしれないけれど、でも「写っていることは全て"真実"です」と、守るべき出演者を切り捨てにかかっている言葉だと思う。最悪のところまで守りきれない挑発的な演出は、やっぱり、してはいけない。

テラスハウスの出演者も、別に脅されて出演するわけじゃない。メリットがあるから出演する。一般人から「半芸能人」への道を駆け上がって、自分の将来への足がかりにした人も沢山いる。彼らの日常の一部を見せてもらって、楽しんだ人がいたのだから、番組のコンセプトそのものが悪かったとは思わない。下世話だなとは思うけど、それでも見てしまう「私」はいたし、手をあげて出たいと思う人がいる限り、アイデア自体は成立するんだと思う。

でも、「普段見られないはずの人の裏側や、駆け引きの裏側すべてを神の目から見て、自分のことは棚に上げて辛口コメントを楽しむ」という、危険を孕んだコンセプトでエンターテイメントを成立させる限り、その先の影響には関与しませんさようなら、というわけには、やっぱりいかなかったはずなんだと思う。「用意したのは、お家と車だけです」の後に「個人に対しての誹謗中傷はお控えください」と一言牽制を入れても良かったと思うし、誹謗中傷したアカウントの個人情報開示請求については出演者から制作側に協力要請できるようにしていても良かった。自分たちの演出で心ない言葉を浴びせられる出演者が出るのだったら、彼らのメンタルケアはセットでなければいけなかった。

何よりも、「出てくれている彼らを守りながら、エンターテイメントとして成立させる」という姿勢で制作していたら、編集と演出が変わっていたんじゃないか。


「誹謗中傷は良くない」というのは本当に心からそう思うと同時に、ネットでは最大の責任者について触れているものがあまりない印象だったので、これを書いた。もっとうまく整理して書けたらと思ったけど、今のところこれ以上できそうにない。また加筆修正するかもしれない。


(5/27 追記:自殺が意味を持ってしまうことを避けたいのに、結局わたしもこの件があってからしか本気で頭を悩ませられないし、総務省は誹謗中傷規制に動き出した。インフルエンサーがこぞって開示請求に着手することを宣言し始めた。死に沈黙せずに、だけど死を消費せず、をどうやって両立させたらいいんだろう。彼女の死にきれなかった幾晩が無駄になることを認めるようで、自分に嫌気が差す。)



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