言葉といえるもの
茨木のり子さんの詩集「寸志」は、私のバイブルだ。
私は「自分が発すべき言葉」について迷ったときは、いつもこの詩集を開く。
のり子さんの言葉に対する大きな愛と、言葉の使い手である人間に対しての、背筋がピシッとなるような、父性的な優しさが大好きだ。
この中の「賑々しきなかの」という詩の、冒頭は強烈である。
言葉が多すぎる
というより
言葉らしきものが多すぎる
というより
言葉と言えるほどのものが無い
この詩集の初版は、1982年。
およそ45年たった今でも、まったく変わっていない状況だと思う。
むしろネットが普及し、より多くのひとの言葉が並列にみえる今の方が、より劣悪な状況かもしれない。
前回のnoteで、「ひとは言葉とストーリーを求めている」と書いたが、現代は、言葉の絶対量は十分すぎるほどある。
それでもなお言葉を求めるのは、言葉といえるものがそこにないから。
誰も責任を取らない言葉。人をネガティブにする言葉。傷つける言葉。
そんな言葉とも呼べない言葉だけが、リアルにもバーチャルにも溢れている。
作詞の仕事をはじめて、日々、言葉について、ものすごく考えている。
作詞とはなんなのか。
音だけで音楽は成立するのに、なぜお金を払って、お客さまは私に作詞を依頼してくださるのか。
おそらく、曲に共鳴した言葉を求めているのではないだろうか。
曲の作り手の思いをより増幅させる、質の高い言葉。
すべての言葉は、似た単語も、別々の言葉である以上違うニュアンスを持っている。
例えば「瀰漫」と「蔓延」という単語は、似た意味だが微妙にニュアンスが違う。
言葉の波長は、少しずれるだけでも共鳴が弱くなる。
したがって、こうした微妙な色の違いを理解することが、質の高い言葉選びにつながっていくのだ。
作詞はフレーズあたりの文字数が重要だ。
しかし文字数だけ合わせれば、作詞ができるのかというのは疑問である。
詩ではなく詞ならば、音として心地よく聴こえるようにデザインしなくてはいけない。
そして、詞にはもちろんストーリーが必要なので、少ない文字数で端正に見せられるように、意味のグラデーションも頭に入っていなければならない。
もっと言葉を知りたい。
質の高い言葉を使えるようになりたい。
ああ、どれだけ勉強しても足りない。
やっぱり私、言葉が好きだなあ。
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