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やっぱり母には かなわない

肺を患っている私の父は、春から入退院を繰り返し、この数ヶ月でかなり病状が進んだ。
もう、自分で歩くことは難しい。



実家の客間が、父の介護部屋になった。
父は介護ベッドの上で1日のほとんどを過ごす。
食事もベッドの上で食べ、風呂は週に2回の訪問入浴になり、トイレはポータブルトイレをベッドの横に置くことになった。

鼻からの酸素の投与量は、少しずつ増えている。

入院のたびに目まぐるしく介護度が上がり、新しい介護用品が増え、利用するサービスが増えていく。


母の消耗が見てわかる。新しいことが次々と始まり、手間ばがりが増えていく日々に、体だけでなく心もついていけないのだろう。

「また、人が来るから落ち着かない」
「ポータブルトイレなんか、匂いがするのに」
「一から十まで私がやらなくてはいけなくて、私だけやることが増えても、みんながお父さんばっかり心配して」
「もう、私はどこにも行けなくなった」


母の嘆きは、当然のように父の耳にも届いている。


*****


週末に私が実家へ行くと、母は買い物に出かける。母からすれば、私は「父の見守り」という役目なのだろうが、父との時間は、私には愛おしい時間だ。

父をマッサージしながら話をしたり、食事の用意をしたり。
父は私のたわいもない話に笑い、時々、ぽつりぽつりと昔の話や今の気持ちを話してくれる。
私は、かすれて聞き取りにくくなった父の声に心を寄せる。

「琲音、眠くなったから少し寝るわな。悪いな。」


父の弱い寝息が、寂しく思える。
すっきりと何にもなかった座敷は父の物であふれていて、父の手の届く場所には、ティッシュの箱やメガネと一緒に小さなカセットテープレコーダーが置かれていた。

私たちきょうだい3人が、幼い頃にノリノリで歌っているカセットテープを、父は時々聴いているらしい。


別人のように小さな顔で眠る父を見ながら、この空間での父の24時間をつい想像してしまう。

部屋の空気が重く留まっている気がして、縁側の窓を開けた。
先週見た時は、父の自慢だった庭は草が生い茂っていた。それがすっきりきれいになっている。
母が体裁を気にしてまた無理をしたのかな、と息苦しいような気持ちになった。



縁側から外に出て、久しぶりに父の仕事場だった倉庫に向かう。使われなくなって約半年が経っていた。



父のいない倉庫の中はガランとして、うだるほどの外の暑さを忘れるくらいにヒンヤリとした空気だった。

父が漬物屋を辞めた時にほとんどのものを処分したので、漬物を漬けるための道具は最低限だけしか残っていない。
商売道具から廃材に変わろうとしている倉庫の主たちが、父を心配しているような気がした。

春先に父が白菜を漬けたときから、この場所は時間が止まっていたのだろう。

漬物を小分けして入れるためのビニール袋が、三枚ほど飛び出したまま、台の上に置かれてほこりを被っていた。
まな板の上には、父の包丁が置きっぱなしになっている。またすぐに使うつもりだったのだろうか。

きちんとたたまれた父の作業エプロンを開いて、棚の上に広げてしばらく眺めてみた。折り目がきっちり付いている。そのまま開いておこうかと思ったが、やっぱりもとのようにきちんとたたまなくてはいけない気がして、折り目に合わせてたたみ直し、元の場所に戻した。


父はもう、ここには来られないだろう。
ここで漬物を作ることはできない。


「俺はここが1番好きなんや。」
そう笑って話していた父の、大きな体やまぁるい顔が思い出される。
じわっと涙が出てきて、気持ちを振り切るように倉庫を出た。


漬物を漬けるときの台


樽や漬物石たち




父のいる部屋に戻るとテレビがついていた。父は起きて、テレビを見ずに天井を眺めている。

「父さん、起きとったん?」

そう話しかけると、父は枕元のリモコンでテレビを消して、私にぼそりと訊いてきた。

「俺は迷惑か?母さんが笑わんのやわ。」

私は父を慰めながら、複雑な気持ちになった。私の話を真顔で聞く父に笑顔はなかった。
父も母も、お互いがお互いを想いながら、それでもつい優しくできずに、顔や態度に「つらい」が出てしまうのだろう。


誰も悪くない。




買い物から帰った母は、笑顔で父に話しかけた。

「大丈夫やった?話し相手がおってよかったね。夕飯はアジの南蛮漬けにするからね。」

むせてしまいそうなメニューだけど、父のリクエストらしい。母の南蛮漬けは父の大好物なのだ。


母はすぐに、父のまわりをクルクルと動き回りながら、自分がわかったように部屋を整えはじめた。
もう母は、父にしてあげることのルーティンが出来上がっているようだ。
ポータブルトイレの中を確認し、手で便座にペタペタと触れて、母はその冷たさを気にしていた。

「お父さん、これじゃ、夏はいいけど冬になったら冷たいから、なんとかしなくちゃね。」

母はずっと先を見ていた。
2人の冬が訪れることをあきらめていない。
こうしてここで父と2人で生きていく未来を、疑うことなく、ちゃんと受け止めていた。


母が笑うと、父も嬉しそうに笑う。



母には、かなわない、と思った。 


暖かそうな便座シートを探してみようかな。
寒がりの父が安心できそうなものを。






最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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