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夫の手が温かかった

我が家は、家の裏側が広い道路に面している。
その道路は、交通量が少ないわりに道幅が広いので、路上駐車が多い。

キッチンのドアを開けると、その広い道路がすぐ目の前に見える。路上駐車中の運転手と、遠慮なくお互いが丸見え状態になるくらいに。

広い道を挟んで向こう側の、少し奥まったスペースには、地域のごみ集積場がある。

このごみ集積場には、同じ団地内の約50軒分の「資源ごみ」と「破砕ゴミ」「ペットボトル」が隔週で捨てられる。
ゴミを覆う網も、分別して入れられる倉庫もなくて、ただ、雑然と地面にゴミが置かれる。
道沿いなので、地域住民以外も「ポイッ」と捨てていく人が少なくない。
地域住民が当番制で掃除をするので、かろうじて、きれいな状態を保てているが、たまにゴミ出しの日を守らなかったり、「可燃ごみ」が置かれていたりして、みっともない状態になっていることもある。


「破砕ゴミ」の日の朝。
キッチンのドアを開け、ゴミを出しに行くと、ごみ集積場から20mくらい離れた辺りの、道路の隅っこに、散乱したごみを見つけてしまった。

いったん家に帰り、キッチンのドアを閉め、やれやれと椅子に座った。
が、少しの間考えて、ホウキとチリトリ、そしてゴミ袋をつかんで、もう一度外へ出た。

ごみ集積場の本日の掃除当番の人が、スルーするかしないか、ぎりぎりの位置だ。
ティッシュ、ビニールの袋、お菓子の袋、ジュースの空き缶、何かわからないベタベタしたものなど、ひどい状態だった。

すべてを拾い、ごみ袋へ入れ、家に持ち帰った。
道はいつも通りにきれいになり、私も気持ちが晴れやかになった。
たった5分のこと。
誰も知らないこと。
それでも、自分には価値を感じた。

夜、夫に話したら
「何やっとんのや!」
というから、睨んでやった。すると、
「そんなことしたら、お前、表彰されてしまうやんか!」
と笑ってきたので、「なんだそれー、あほだね」と言って、私も吹き出した。
夫はいつも、そういう言い方をする人だ。




翌日の朝、母から電話が入る。
「お父さんの様子がおかしいんやわ。あんた、来れる?」

重い心身障害のある娘の体調は、その日は安定してくれていて、午前中は生活介護施設に連れていくつもりでいた。
ありがたいことに、午前の約1時間半だけだが、私が身軽に動ける日だった。

娘を預け、実家へ急ぐ。
ベッドの上の父は、明らかに様子がおかしく、肺炎で入院していたときの娘と一瞬で重なった。
父は肺を患って4年になる。
酸素飽和濃度は「75」
「たぶん、肺炎だな」そう思って、父を連れてかかりつけの総合病院へ急いだ。

母はうろたえて、いつもの冷静さがなくなっていた。
車椅子を借りて、父を座らせ、酸素ボンベの流量をいつもの2倍に増量して、父の背中をさすり続けた。

レントゲン、採血、CTと、次々に検査をする。
娘を迎えに行く時間が迫っている。

両親へお茶と、食べられないかもしれないおにぎりを、院内のコンビニで買い、あとは母に任せて、私は娘のところへ行くことにした。
車椅子に座った青い顔の父が、私に手を合わせて
「ありがとうな。ありがとうな。」
と言う。
「ずっと付き添えなくてごめんね。お父さん、大丈夫だからね」と言って、私は振り返らずに病院を出た。

すぐに私の妹や弟も駆けつけて、父と母を支えてくれたようだ。
夕方まで検査や処置をして、そのまま父は入院になった。やはり父の肺は、重篤な状態だった。

夕方に主治医からの話があるというので、夫に娘を任せて、私はまた病院へ戻る。
妹は、疲れ切った母を連れ帰ってくれていた。
私は弟と、主治医の話を聞いた。
コロナの感染予防のため、病室の父にはもう会えなかった。
厳しい話もされて、二度と会えない覚悟もその場ですることになる。
私は驚くほど冷静に、父の現実を受け入れていた。

もしも朝の時点で病院へ行っていなければ、手遅れだったことも聞かされ、昨日のごみ拾いを思い出した。
「何の関係もないだろうけど、ごみを拾ってよかった」と、見えない何かに感謝した。



夜、リビングで、へたり込む私に、夫が肩もみをしてくれた。

私は貧相な感じで痩せている。
美しく痩せているモデルや女優のようなスタイルではなく。
誰もが羨むようなきれいな細さとは違い、イタイ感じだ、と思う。
結婚当初はぷくぷくしていたのだけれど、介護生活は、私をどんどん小さくしていった。
食べても太れない。

「今日はお手柄やったな。よくやったやん。」
「ありがとう、たまたま、私が動ける日でよかった。」
そう言うと、夫が私の肩をがっしり掴んで、しみじみ言った。

「おまえ、こんなに痩せてしまって、かわいそうに。」

初めて、夫がそんなことを言った。
我慢していたものがあふれ出すように、私は体育座りでしばらく泣いた。
ずっと肩に置いてくれた夫の手は、あっかくて優しかった。



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