病院が苦手なわけ
私は病院が苦手だ。
そこに居るだけで気分が悪くなって、
健康体であるはずの自分すら病人気分になる。
お見舞いに行こうものなら、笑顔を取り繕うので精一杯。
元来バリバリの健康体にも関わらずだ。
病院のような場所が苦手だ。
病人が多い場所も苦手だ。
気分が病んでしまうのがとても辛い。
そして今日、
ふと気付いた事がある。
私は体調不良という症状を「否定」していたのだ。
気分が悪い、具合が悪い、疲労、吐き気、頭痛などなど…
そういう症状を見せる自分に「バッテン」の判子を押す。
それに連なって昔のことを思い出した。
「具合が悪い」「お腹が痛い」と両親に報告するたびに、
両親は眉間に皺を寄せるのだ。
「なにを間違えてしまったのか」
「悪いものを食べさせてしまったのか」
「生活の管理が甘かったのでは」
私はその言葉を真に受けた。
そして、こう思ってしまう__
「私は間違えたから、体調が悪いのだ」
「体調が悪いという事は、私が間違えた結果だ」
確かに、病気や怪我は「嬉しい事」ではない。
けれどどうだろう。
もしも自分が、
腹痛を催し途中の駅で電車を降りた後、
その電車が次の駅で事故を起こしたとしたら?
もしくは、
自分が降りた先の駅で幼馴染と偶然再会したら?
「腹痛になって良かった」という捉え方はできないだろうか?
私は病気や怪我、気分の悪さなどを
何かしらの間違いから来る罰だと
思い込んでいる節がある。
だから無意識下でこうも思っていた__
「病気や怪我をしている人は、罰を受けているのだ」
「病気や怪我をしている人は、何かを間違えてしまったのだ」
極端な事を言うと、病院とは私にとって罪を償う刑務所の様な場所。
私にはそういう思い込みがあるから、
病院という場所が嫌いで、苦手で、
逃げたくなるのかもしれない。
歯医者とかもそう。
さて、意識を書き換えてみよう。
まず「病気や怪我を否定している自分」を認識。
次に「病気や怪我は、単なる状態でしかない」という捉え方に修正。
そして
「病気や怪我は、捉え方によっては良い物になり得る」
という可能性を認知することで、
病気や怪我を受容していけたらいいなと思った。
欲を言えば…
起こり得る全ての事は、
すべて良い方向に進んでいるサイン。
そう思えるようになれば最高だな。
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