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アナログは永遠だ 

 「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より(中略)頭の中のほうが広いでしょう」と言った。

 夏目漱石の「三四郎」に出てくる広田先生のことばである。

 はじめてスマホの青空文庫で「三四郎」を読んだ。作品自体は面白かったが、どうも欠落感が拭えない。  
 広田先生のことばの厚みと読み終えた後の充実の厚みが全然違う。別に夏目漱石のせいではない。

 島崎藤村の「破戒」もスマホで読んでみた。瀬川先生の葛藤と絶望を描いた名作であるが、このときの読後感も「三四郎」を読み終えた感覚に近かった。なにかが足りない。もちろん島崎藤村のせいではない。

 スマホで読むとたしかにトイレや電車のなかでも読めるし、携帯で読めるから、荷物にならなくて便利だ。音楽を聴くときも同じである。CDやレコードを持ち歩くわけでないから、電車の中や歩きながらでも曲は聴けるし、聴きたい部分だけ何度も流すこともできる。
 
 ただそれだと本にせよ音楽にせよ作品の本来持っている重量感が一気になくなる。重量感とは、ページをめくりながら、あと何ページ残って、これからどうやって話しが展開するのか、物語への好奇心であったり、表紙やジャケットの写真のデザインの魅力であり、手にしたときの触感そのものである。
 
 そういった重量感は「待つ」ことへの楽しみにつながり、待つことがいずれは憧れへと変わっていく。

 ぼくたちは待つことができなくなった。日々の営みのなかで余白をつくることができなくなった。いつでもどこでも外部を遮断し、じぶんの感覚の世界に身を置くことだけがしあわせといえるのか。

 待っている間にふと過去の記憶を呼び起こしたり、いま目のまえの風景に思いを馳せたり、作品を読み終えた、聴き終えた未来のじぶんを想像してみたり。ぼくたちの身体は過去、現在、未来を含んだ壮大なものである。

 ぼくたちはもっとじぶんの身体の声に耳を澄ましてもいいかもしれない。身体の中に余白を作ろう。タイパなんか言っている人とは距離を置いたがいい。アナログは永遠だ。

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