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Chapter 2. Vol.8 魔法の契約書

あらすじ


2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

これまでの物語


Chapter 1
プロローグ
Vol.1 アポカリプスの到来
Vol.2  片桐家の憂鬱
Vol.3 この現実はスイッチオフできない
Vol.4 僕もきっと壊れている
Vol.5 あきら、フランスへ行く

Chapter 2
Vol.1 あきらの旅立ち
Vol.2 答えのない問い
Vol.3 春の嵐
Vol.4 あきらとバゲット
Vol.5 原始の楽園
Vol.6 この世界は二度と元に戻らない
Vol.7 処刑の時間


本編 Chapter 2. Vol.8 魔法の契約書



 東京壊滅のニュースは、世界各国に大きな波紋を投げかけた。大多数の先進国はマイクロチップ制度を導入していたので、彼らにとってこの件は対岸の火事とは言い難かった。マイクロチップ制度を廃止するべきではないかという声も大きくなりつつあった。けれどそれは人々にとって、中世時代の生活様式に戻れと言われているようなものだった。それはただ不便というだけでなく、ほとんど不可能に近かった。病院の手術室の扉でさえ、マイクロチップがなければ作動しないのだ。現実的な解決策とは言い難い。一方フランスでは、はじめの一か月ほどはこの話題で持ちきりだった。電子工学者や医療関係者たちは以前よりも熱心に研究に力を注ぐようになった。けれど一般の人々の関心はだんだん他の事へと移っていった。物価の上昇や、年金改革や、人権問題といったようなことに。人々は自分たちの生活で手一杯で、極東の小さな国の情勢など構っていられなかったのだ。 




 そのようにして時間が過ぎていった。さわやかな初夏の風はいつのまにか止み、代わりにくっきりと青い空に陽気な入道雲が現れた。あきらはそうした季節の移り変わりを、病室のベッドでテレビを観る病人のように眺めていた。ガラス玉のような瞳を開きっぱなしにして、彼はただ躰が勝手に息をするのに任せていた。少年はド・ラ・シャペル家の人々との外出を億劫に感じるようになり、部屋に閉じこもるようになった。彼らが話しかけても、必要最低限の返事しかしなくなった。食事の際には部屋から出てきたが、それもほんのわずかな時間だけで、5分ほどの短い時間にパンと水を口にするだけだった。入浴することさえしばしば忘れるようになった。由香梨がなだめたり𠮟ったりしてやっとシャワーを浴びるようになったが、それも一週間に一度だけのことだった。




 もともと華奢だった彼の躰は、またひとまわり痩せてしまったようだった。顔や手足は青白くむくみ、髪の毛には艶がなくなってきた。肋骨はがらんどうの鳥籠のようになり、膝頭の骨はうすい皮膚を破って今にも飛び出して来そうだった。少年は昼間のひかりを避け、夜、家族が寝静まってから居間に降り、そこで長い時間を過ごすようになった。そのほの暗い空間は、少年に親密な闇を提供してくれた。ソファに寝ころんで目をつぶると、浅く短い眠りが訪れた。彼は何度もあの処刑の場面を夢に見た。夢の中では相変わらず奇妙な躰つきの人々が列をなして谷底へ降りて行き、スピーカーから聞こえる声が処刑されるべき人物の名を告げた。少年は夢の中で両親に助けられ、必死に逃げたが、彼らの行方はわからないままだった。



 そのように苦しい夜が過ぎ、気を失うように朝を迎えた。夏の朝のひかりは部屋の隅々まで容赦なく射し込んできた。少年は夢から覚めると、いつも自分がどこにいるのかわからなくなった。見慣れた部屋の天井や、淡いグリーンのカーテンのひだに溜まっているひかりの粒や、おもちゃのような小さな机の上に少年の視線はゆっくりと注がれていった。それから彼は手足がとても冷えていることに気が付いた。パジャマは汗でぐっしょりと湿っていて、必要な体温をすべて奪ってしまっていた。胸は激しく上下し、さっきまで誰かが乗っていたみたいに重苦しかった。彼はそうした自分の躰の反応を不思議に思って観察した。死亡を告げたばかりの患者が、まだ息をしていることを発見して驚く医者みたいに。実際、彼はほとんど死人のようだった。それにも関わらず、彼の躰は黙々と生き続けていた。チェルノブイリ原発事故の跡に咲く、たくましい野生の草花のように。




 由香梨が二日に一度少年の部屋を訪れ、掃除やベッドメイキングを行った。彼女はいつも窓を開けて出ていったので、夏の風に乗って街のざわめきが聞こえてきた。子どもたちの楽しそうな笑い声や、車が通り過ぎる音、それからいつになっても鳴り止まない鳥たちの声。午後の陽射しは部屋の中に容赦なく射し込み、鬱陶しいほどのひかりが彼の腕やほほに照りつけた。フランスの夏の夕べは、伯母の言ったようにとてつもなく長かった。夜9時でも昼間のように明るい。そうした激しい夏の輝きに身を晒すことは、あきらにとって何かとても危険なことのように感じられた。それは夢の中で見た、オレンジ色のスポットライトを少年に思い出させた。世界中が躍起になって、少年から悲しみの影をむしり取ろうとしているみたいだった。




 夏の陽射しがいよいよ濃くなってきた7月のある日、ジャン・ルイがあきらの部屋を訪れた。それは土曜日の午後2時頃のことだった。ジャン・ルイは部屋の扉を遠慮がちに叩き、少年の返事が聞こえたのを確認すると、そっとドアノブを回した。部屋は彼が想像していたよりも清潔に整えられており、透明なひかりに照らされた机や椅子やベッドが、床に濃い影を落としていた。子ども用の机の上にはペン立てが置かれていて、その中には2、3本の鉛筆がつつましく並んでいた。どこもかしこもあきらが来た日のままだった。本当に誰かがこの部屋で寝起きしているのだろうかと疑わしくなるほどだった。その生命の動きのない部屋は、入念に準備された病室のようにも見えた。ジャン・ルイは戸口に佇んだまま、調子はどうかと尋ねた。あきらはベッドに上半身を起こしたまま、黙っていた。少年は自分の黒ずんだ指先を見つめていた。彼はそこに全神経を集中させていて、他の一切を忘れてしまったように見えた。まるでその小さな一点に世界が集約されているみたいに。ジャン・ルイは咳払いをし、ベッドの端に腰かけた。少年は特に何の反応も示さなかった。ジャン・ルイはできるだけ感じのいい微笑みを口元に浮かべ、もう何週間も前から考えていた言葉を口にした。

「あきら、インターナショナルスクールに通う気はないか」

相変わらず反応はなかった。ジャン・ルイは構わず続けた。

「ここからそう遠くない場所に、外国人のためにフランス語を教える学校がある。実はその校長は昔からの知り合いでね。願書受付は締め切っているそうだが、おそらく私が声をかければ、今からでも君の入学を受け入れてくれるだろうと思う」

少年は相変わらず下を向き、自分の爪をじっと見つめていた。

「実を言うと、すでに申込書を送ったんだ。君の返事を待たずに悪いとは思ったけれど、ちょっとこみいった事情があってね」

あきらはそこで初めて顔を上げた。自分のことについて話されているのだと、やっと気づいたみたいに。ジャン・ルイは長い指を突き合わせて少年の反応をじっと伺っていたが、やがて静かに話し出した。




 彼の言うおおよその内容はこうだった。あきらは目下、難民としてフランスに来ている。通常、難民としての滞在許可証は10年間有効だが、少年の場合は異例のことなので(ジャン・ルイは『アポカリプス』という言葉を使わないように気を配っていた)、3年の許可しか下りていない。3年は長いようで短い時間だ。何もせずに過ごしていればあっというまに過ぎてしまう。3年後に日本の状況がどうなっているかはわからないが、現状から考えると帰国には慎重を要する。もちろん、いずれは日本に帰ることも可能になるだろうが、ひとまずはフランスに滞在した方がいいだろう。そのために、ジャン・ルイや家族は出来るだけのことをするつもりだと。彼は難しいフランス語には注釈を入れ、時々言葉を切って少年が理解しているかどうかを確かめた。その度にあきらは小さく頷いた。ジャン・ルイは微笑み、また続けた。

「私が思うに、君には第二のプランとなるものが必要なのだ」と彼は言った。

「3年の滞在期間が過ぎても、さらに君の立場を保障してくれるような何かを準備しておく必要がある。例えば進学といったような」

ジャン・ルイはここで言葉を切り、あきらの目を見つめた。少年はかすかに顎を引いた。少年の目がきらめいたように見えたが、それが好奇心の現れなのか、緊張なのか、ジャン・ルイには測りかねた。彼は少し声のトーンを変えて、できるだけ威圧的な感じを与えないよう注意しながら続けた。

「いずれにせよ、フランス語をブラッシュアップするというのは悪いアイディアじゃないと思う。もちろん、君はずいぶん上達したし、私たち家族ともコミュニケーションが取れるようになってきた。でも、せっかくだからもっと力を入れてみるつもりはないかい?君はまだ若いし、吸収力も相当なものだろう。今から学校に通えば、5年後、いや3年後にはフランス人と変わりなく話せるようになるだろう」

少年の瞳の中にあったひかりが、ほんの少し大きくなったようにジャン・ルイには思われた。そのひかりは炎のように揺らぎ、躊躇っているみたいだった。

「まあ、無理にとは言わないが、少しでも興味があるなら試しに行ってみればいい。もし気に入らなければ辞めたっていいし。気楽に考えてみてくれないか」

ジャン・ルイはあきらの肩にそっと手を乗せた。その手は決して押しつけがましくなく、鳥の羽のように軽かった。指が長く、象牙のように色の白い、上品な手だった。昔のフランス貴族は、もしかしたらみんなこんな手をしていたのかもしれないと少年はふと思った。




 その日、あきらはあの事件以来初めてアポカリプス以外のことを考えた。本当に一瞬のことだったけれど、ジャン・ルイが持ち出した新しい話を聞いている間、少年は東京壊滅の暗い夜のことを考えずに済んだ。その晩、あきらはバッグの中に入れっぱなしにしておいたノートを久しぶりに開いた。最後に記述があったのは、2051年3月22日で、彼がバゲットを買いに行ったことが書かれていた。少年は自分の細々とした筆跡を、誰か知らない人のもののようにじっくりと眺めた。あの日花憐に励まされてパン屋に行ったことが、何年も昔のことのように思われた。それからベッドに寝転がり、天井を見上げた。彼は何もない空間に手を伸ばし、《école》(学校)と指で書いた。まるで目に見えない魔法の契約書にサインをするように。そして長い間、その姿勢のまま天井を見上げていた。

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