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短歌 わざわざ口に出す

「生きている」わざわざ口に出す日々となって久しい春一番よ


私の住む街では、まだ春一番が吹いていません。いよいよ季節が春へと動き出したなと感じたのが、職場近くのビルの前に植えられている桜の木から、ぐるぐる巻きになっていたLEDのコードが取れていたことでした。

よく見ると、つぼみもまだ固かったものの、少し膨らんでいたような。

春先は、どうしても調子が不安定になります。生まれて初めて精神面で調子をひどく崩してしまったのが、3月だったからかもしれません。もう随分前のお話ですが。

▽春先はどうしても調子悪くなりがちよね、でも白菜が美味しいよ的お話

個々人の死生観は、とてもデリケートな話題なのであまり容易に要約表現できないし、したくもないのですが、個人的には「いつか必ずやってくる死」は「いま生きていること」と地続きだとは思っていて、だからフラットなニュアンスで、「生きている」とは「死んでいく」と同義だと思っています。

体調を崩して以来、「生きている」を何度も放棄しようとしました。実際、そういう道を選んだ近しい友を数人、見送っています。けれど、いや、だからこそ、私は「生きている、死んでいく」ことに対して過剰に能動的になるのをやめようと思いました。(職業柄、比較的身近な人の死に接することが多いことも、もしかしたら影響しているのかもしれません。)

逆説的かもしれませんが、受動的に惰性で生きることともまた違うのです。とめどなく流転する日々の中で、一つの凝り固まった価値観に縋るのは、自分の性に合わないのだろうと感じています。風の吹くまま、気の向くままに「生きて」(死んで)ゆけたら。それが、今のところの一番の願いだったりして。

春一番が吹いたらきっと、「生きている」と、あるいは「死んでいく」と、私はつぶやくことでしょう。

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