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自転車置き場の小さな犠牲者

私たちは些細なことで勝負の土俵にのっている。
たとえば自転車置き場なんかでも。

ある午後のスーパーの自転車置き場。
買い物を終えたら
私の自転車(ママチャリ)が
2台のチャイルドシート付き電動アシスト自転車にガッツリ挟まれて
出せなくなっていた。

このお店では自転車を出しやすいよう時々並べ直してくれる
守衛さんのようなオジサンがいる。
が、こういう時に限って、どこにいるのやら(笑)。
しばし見渡すと、
自転車置き場の遥か反対側でぼーっとしているオジサンを発見。

この日、私は身体を痛めていて、買い物の荷物を手にするのもしんどかった。
そこに「ドデカ自転車挟み撃ち」。おまけに助けて欲しいオジサンは遠い。

不満な時は、犠牲者モード

こんなふうに、なんだか思うようにいかない時は
なんとなく、他人や相手が
「自分の幸せ(心地よさ)を阻むワルモノ」に見えてくるものだ。

「オジサン、自転車置き場全体を目配してくれないかなあ。
歩き回るとかさあ…仕事しろよ、こうして客が困ってるじゃん…」
歩きながら、心の中でブツクサ言っている私。

いや、ちょっと待て…。

そんなことはない。
オジサンは自転車置き場の向こう側の様子を見ていただけだ。
心の中で相手と自分へのラベルを剥がす。
その瞬間、フッと肩から力が抜けた。

「どうされました?」
歩み寄る私にオジサンが気づく。にこやかな表情。

「あのー、自転車を出せなくなっちゃったんです。手を貸してくださいますか?」
とても穏やかな気持ちで頼めた。

「犠牲者になっている自分」を「降りる」。

自分が不快感でいっぱいな時は、相手や周囲が
なんとなく「ワルモノ」に見えるものだ。
おまけに、不快感を解消したいから相手を叩いて、勝ちたくなる。
怒って相手を責めている。

そんなときは
自ら、自分を勝負の土俵に入れてしまっているのだ。
それも、ほぼ無自覚に。

相手が悪い、ということは、自分が正しいということだ。
正しい自分が勝っているのなら、いい気分だろう。
しかし、自分は「不快」だ。自分の正しさは通用していない。
心の中で、自分自身を相手の不幸な犠牲者にしてしまっている

「オジサン、ちゃんと仕事しろよ!」と心の中で怒ってた時
私は、まさにそういう状態だった。

こんな時は自分の正直な気持ちに気づいていない。

私は、自転車が出せなくて困っている。
だから助けが欲しい。

目線を「相手」ではなく「自分」に向ける。
自分の正直な気持ちに立ち返る。

たったそれだけで、
あっさりと勝負の土俵から降りることができる。

なぜなら、自分の正直な気持ちに立ち返るということは
自分自身を大切に、尊重している行為だからだ。

大切にされている、尊重されていると実感した時
わたしたちは、見失いかけていた自分の力に
気づくことができる。

自分のなかにある状況を乗り越える力に気がつける。
もう犠牲者になりようがない。
「相手のせいで、私は不幸だ」という幻想から抜け出せる。

いったい人生のなかで
いったいどれだけ自分を犠牲者扱いして、闘争モードに入っていたことだろう。
自分で自分を大切にしてしないことに全く気づいてなかった。

「わたしは自転車を出したい。おじさんの助けが欲しい」
見失っていた自分の声を拾う、たったそれだけで
自転車置き場の小さな犠牲者は、私の心の中から消えた。

スーパーの帰り道、
自転車を出してくれたオジサンへの感謝を胸いっぱいに
漕ぐペダルは軽やかだった。

■今日の一言

相手に対して怒りを感じる時
きっと、隠れている感情や望みがまだある。
さがしてみよう。
それは、自分を大切にすることで、
自分に力を与えてくれるはずだから。

今日も読んでくださってありがとうございます。
自分にやさしくお過ごしください。

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