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「苦しみ」の姿かたちはどこにある?

いじめに遭っていた子が命を絶った...というニュースで、
「変わった様子はなかった」というような
周囲の人のコメントが挟まれることがあります。

命を絶つくらいだったのだ。どれだけ苦しかったことでしょう。
けれど、まわりからは「変わった様子」には見えていなかった。
死を選ぶほど苦しんでいるようには見えなかった。

そのたびに当たり前のことだけれどつくづく思う。
「苦しみ」は、目に見えるものではないんだなあ...と。

その子の立ち振る舞いや言動に接して、
その子が苦しんでるのだろう...と推察することはできる。
でも、「苦しみ」そのものを、外から見ることが全くできない。

逆に言えば、
その子は「苦しみ」そのものを他の人に見せることができない。

殴られたり蹴られたりして身体にできた傷やアザを見せることはできる。
けれど、仲間外れにされたり、いたずらされたりして心に負った傷を
「これが、私がいじめられてできた心の傷です」と
誰かに見せることはできない。

どれだけ大きな苦しみを抱えていても、苦しみ自体は姿形が全くない。

誰にだって、心が傷ついて苦しい時がある。
その時、あなたの傷ついた心はどこにあるのだろう。
あなたの、その苦しみはどこにあるのだろう。

「苦しみ」が、見えたり、触ったりできる「モノ」だったら
「ほら、これが私の苦しみ」と誰かに見せやすいのにね。
そもそも、自分でもわかりやすいだろう。
そして、お互いわかりやすくなるだろうね。
時々、そんな風に思うこともある。

どんなに実感があっても、苦しみ自体は影も形もない。
それが「苦しみ」との
つきあいにくさの理由の1つだと思う。

じゃあ、どうしたら
わたしたちは、
もうすこし「苦しみ」とつきあいやすくなるんだろう....

そのあたり、少しずつだけど、わたしも書いていきますね。

今日も読んでくださってありがとうございます。
自分にやさしくお過ごしください。

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