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子供の頃に満たされていたかどうか

記念日と言われるような日に考えてしまうことがある。子供の頃に満たされるべきことが満たされていないと生涯消化出来ないのだな。と。

俺のことになるけれど子供の頃に、誕生日、子供の日、海の日、クリスマス、正月、春休み、夏休み、冬休みなどなど、記念日や祝日に思い出がない。唯一あるとすれば、お盆の思い出だろうか。しかしそれも特別なものではない。

俺にとってはどれもある意味で悲惨な日だ。親父は、もっと何もなかったわけでそのままの感覚で俺を扱ったからだ。まぁ仕方ないと今は思っている。家庭環境というやつだから。

日帰りで家族で出掛けたことはある。だけど、あくまで日帰りの範囲だから行き先は知れているし、数えてもそれすら片手以下で本当の遠出は子供の頃にしたことがなかった。家族で旅行し宿泊したりがないのだ。だから大人になって自分で旅行に行くまで旅とはどんなものかホテルのチェックインというものや泊まり方など何も知らなかった。

大人になって自分でそういう日を記念日として過ごそうと努力し、その気持ちを尊重してくれる人も周囲に増え満たされていくのではないかと思った日々もある。しかし、やっぱりそうではなくて、どこか薄っすらとシラけている自分が見える。周囲に申し訳ないと思うと尚更どうやって楽しめば良いのか分からなくなったりする。

それと延長線にあることだが、褒められることが苦手だ。褒められるとどういうリアクションをすればよいのか分からない。

そんな家庭環境で育った反動で、18才で家を出てから、夜遊びしまくって、旅行に行きまくって、欲しいものをそれなりに手にいれ、会社を作り、やりたかった趣味を全部やりと大忙しに過ごしてきた。持ち前のポジティブとハングリー精神は人一倍強く鍛えられていたため、薬でもやっているのかと疑われるほどのテンションを維持し続けて過ごしていた。

そのうち幸い老若男女の理解者も得て、今はとても普通のふりをして暮らしている(笑)

だけど、そういう記念日や祝日などが来ると内心では、ピントが合っていなかったりするw

どこかシラけていて、遠くから眺めているような感覚になる。ちょうどGWだから、多くの人が周囲の人たちも出掛けて楽しそうにしている。
さて、俺はというと人の少なくなった道を快適だなとか思いながら、仕事に向かっている。別にこれが俺の普通で、何も感じない。混雑も嫌いだし、どこもかしこも高くなる時期だし、今出掛けることにあまり関心がない。子供が小さかった頃に何度か旅行に連れて行ったりしたが、そういう時期の旅行は最終的にカオスになって楽しかったのか楽しくなかったのか俺にはイマイチ理解出来ない(笑)
渋滞にはまり、つまらないとかトイレに行きたいとか意味不明に泣き止まなかったり、何が楽しいのだろうか。元奥さんも行った先で怒り出したり意味が分からない。そうは言いつつ、子供達が小さかった頃は、海外も含めてよく家族旅行に連れて行った。

俺の子供の頃の家庭環境は、誕生日はもちろんのこと、ほとんど家の仕事の手伝いで終わる。学校が休みなのは両親にとっては人工が増えて有難いことだった。ちょっと他の家とは違う環境だった。貧しくは無かったと思うが、食事が毎回あるというだけで、何かを買ってくれたり、お金をくれたりなどは一切なく、教育のためという名目で、お年玉も全て回収されていた。貯金されていたが、欲しくもない家の中の物になっていて、お年玉貯金で買ったから子供達の物だと言っていたが、何一つ嬉しいはずがない。

そんなこんなで、特殊な感情の人間になるのだけど、案外同じ境遇の人が居ることを大人になって分かったりした。

そういう環境だったからか、子供時代に憤りを酷く感じてやるせない気持ちの時期も長かった。しかし今はもうそれもない。それでも解消されている訳ではなく、イエーイ誕生日だぜ!などと楽しめることもない(笑)

子供の頃に満たされるべきものは、満たすべきなのだという話に結びつくのだけれど、何が正しいのかは分からない。

それに満たされる尺度には、個人差があるだろうから、人生において正解というものはない。