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#1「子育て」と「仕事」のバランスをとる。そして自分の「働き方」にも納得する。柳澤さんの「はたらく」ができるまで。

今回の「あの人の“はたらく”ができるまで」は、柳澤拓道さん。

左が柳澤さん。右は私(伊藤)。


柳澤さんは、「バランス感覚」に優れた人だ。
お話をうかがい、そう感じた。

子育てが始まったことを起点に、「働く」上での僅かな違和感と向き合い、リスクをとりながらも、行動を起こす。

当時は「転職」も考えていそうたが、結果として「移住」という手段を選び、ご自身が納得する「はたらく」を体現している。

子育てに柔軟に対応できる時間を確保しながらも、「自分」を主語に、「働くこと」に対する納得度も諦めない。

そのような現状はどのように作られていったのか。お話を聞いた。


【プロフィール】
柳澤 拓道さん
大学卒業後、独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)入社。都心部の大規模な「まちづくり」をはじめ、総務、広報等を担当。子育てが始まったことを契機に「働き方」を模索し、長野県佐久市へ移住。
現在は、株式会社MoSAKUの代表取締役として、コワーキングスペース「ワークテラス佐久」の運営、「超まちづくり」に関わる数々の施策を行う。「自分を主語」「ローカルシフト」をキーワードに、複数のプロジェクトを推進中。


幼少期から学生時代

―今日はよろしくお願いします!

柳澤さん お願いします。

―まず始めに、柳澤さんの幼少期から現在までの流れをざっと、私の方からお伝えしますので、間違いがないか、聞いてもらってもいいですか?

柳澤さん え(笑)?伊藤さんから「私(柳澤)の生い立ち」を説明されるんですか?

―ええ、そうです。ある程度の調べはついていますので(笑)。

柳澤さん 分かりました(笑)。

―東京都江戸川区でお生まれになって、その後は千葉県、静岡県、埼玉県と移り住み、中学校入学前に江戸川区に戻り、学生時代を過ごされた。ここまで合っていますか?

柳澤さん そうですね。まさに(笑)

―ありがとうございます。幼少期、特に静岡県では自然豊かな地域にいらして、のびのびと育ったというお話をどこかで聞きましたが、学生時代はどのようなことをしていたんですか?

柳澤さん そうですね、音楽に夢中でした。小学生の時にJポップの曲を聞いて歌ったりしていた記憶があって、中学校の時に軽音楽部へ入部、チェロを弾き始めました。

―チェロですか。1人で弾くんですか?

柳澤さん 色々やりましたが、オーケストラのように「大人数で」というよりも、バイオリンや他の弦楽器と一緒に「少人数」で演奏する方が好きでした。中学校を卒業してから、高校時代もひたすらチェロの練習をしていました。

ー学生時代は音楽一筋って感じですね。チェロは大学でも続けたんでしょうか?

柳澤さん そうですね、大学時代も音楽中心の生活です。管弦楽サークルに入りつつ、友人らと少人数で演奏していました。そんな毎日でしたね。

―学生時代から始めたチェロ。「音楽」が人生とともにあるんですね。

柳澤さん そうですね。プロになりたかったくらいなんで。

ーおぉ!すごい、プロですか!!

柳澤さん はい(笑)



就職活動。「まちづくり」という言葉と出会う

―大学卒業後は、独立行政法人都市再生機構(UR)へ就職されたんですよね。その後は、30歳の時にお子さんが生まれ、34歳の時に長野県佐久市へ移住、という流れだと思いますが、まずは就職のお話を。

柳澤さん はい。

ー大学卒業後の進路としては、「就職」を選んだんですよね?チェロのプロになる道を選ばずに。

柳澤さん とりあえず食べていかないといけませんからね。就職してとりあえず3年間やってみようと思いました。

―当時の就職活動では、多くの企業を受けたんですか?

柳澤さん いや、少なかったですね。経済合理性を追うことに、あまり魅力を感じなくて。今では、何かを続ける為には「しっかり稼ぐこと」も大切だと理解していますが(笑)。

―確かに大切ですよね(笑)。就職活動では、どんな業界を受けたんですか?

柳澤さん UR、鉄道、ガス、電力など。インフラばかりですね。

―なぜでしょう?URに入社した理由にもつながりますか?

柳澤さん チェロが続けられる環境が重要だったから、ですね。その中でもURで出会った「まちづくり」という言葉に惹かれました。

―なるほど。やっぱりチェロの存在があるんですね。「まちづくり」というワードが出ましたが、実際、就職してから「まちづくり」に携わることはできましたか?

柳澤さん 1年目は関わることができて楽しかったです。2年目3年目は、総務、広報といった裏方の仕事をしていて。個人的にはあまりフィット感はなかったですね。

-総務、広報とは、具体的にどんな仕事内容でしたか?

柳澤さん パソコン手配・LAN工事・文書チェック、等が多かったですね。でも、当時は積極的な意味付けが難しかったこの経験が、今、ものすごく役に立っています(笑)。

―ほう、それは面白い視点ですね。現在は、行政と仕事をすることも多いようですから、文書チェック等の経験は役に立ちそうですよね?

柳澤さん そうそう、細かい話ですが、行政とやり取りする文書の書き方をはじめ、「こういう言い回しは使わない」とか、製本の仕方、印鑑を押す位置等。行政や大きな企業との仕事を進める上で、あの経験は役立ちました。

―押さえるべきところは押さえる、って大事なことですもんね。その為に、前職でのスキルが役立った、と。
 
柳澤さん そうですね。自分で会社経営する際にも必要だろうし、理解しておいて損はないし、振り返ってみればユニバーサルスキルでした。

-裏方業務のその後は、どのようなご経験をされましたか?

柳澤さん その後は、1年間の出向を経験しました。そして、戻ってからは、また「まちづくり」ができる楽しい部署に配属されました。でも、その後、また自分としてはフィット感のない部署に異動となりそうで(笑)

―もうそろそろ、いいんじゃないかと(笑)?

柳澤さん 考えますよね、色々と(笑)。それに、ちょうどタイミングがいくつも重なって。



「働くこと」に向き合うキッカケ。重なるタイミング。


柳澤さん この頃、子どもが生まれたんです。そのようなタイミングも重なって、「このままで良いのかな?」と思い始めました。

―「このままで良いのかな?」を、もう少し言語化するとどんな感じでしょうか?その時の思考過程を知りたいですね。

柳澤さん 「もっと柔軟に働けないか?」ということですかね。子育てを自分も積極的に行うこと、子どもの将来のこと、仕事のこと、それら全体に関わる自分の働き方のこと、これらについて考えるようになっていきました。

―それらをどのようにバランスさせるか、自分で納得する形を模索し始めた、ということでしょうか?

柳澤さん そうですね。

―「仕事のこと」にフォーカスすると、具体的に言えば、どんなモヤモヤがありましたか?

柳澤さん そうですね、大きくは2つ。
1つは目、「キャリア」について。
私が就職したのは、URという、行政に近い性質のところでしたが、民間の事業会社に就職した友人との給与格差もある。あと、総務、広報、人事等の仕事へ数年毎に異動するのに耐えていたけど、仕事内容が自分としてはあまりフィット感がなかった。当時はまたバックオフィス部門へ異動するタイミングでもありました。

2つ目は、「疎外」ですかね。
自分が作ったものが自分のものでない。自分のした仕事が自分の手を離れていき、その反応も直接は感じることができない。誰の為に、何の為にこの仕事をしているのか、分からなくなりつつありました。そんなことを思い始めると、「この仕事を行うのは自分である必要はないのではないか」とか。

―子育てのタイミング、バックオフィス部門へ異動するタイミング、色々と重なりますね。

柳澤さん タイミングという側面から言えば、妻も忙しい職場へ戻るタイミングでした。本当、色んなことが重なった、という感じですね。



「転職」を考えたけど「移住」へ。そして予想しなかった「休職」という選択肢の浮上


ー「働くこと」に向き合った結果として、「移住」という選択肢を選ばれたと思うんですが、その時、見えていた選択肢は、他にどんなものがありますか?

柳澤さん 「転職」くらいですかね。

―転職活動はしたんですか?

柳澤さん いや、していないですね。

―なぜでしょう?

柳澤さん 転職も考えましたが、思いとどまっていたのは、ホワイト企業だったから(笑)。子育てを考えた時に、多忙な会社へ転職して、子育てに参加できなくなるのは嫌だし、そう考えると転職ではないかな、と。

―やはり、お子さんの誕生が大きいのですね。子育てに参加する為に柔軟に時間を割きたい。そして、仕事に対するモヤモヤも解決したい。その手段として「移住」が出てきたんですか?

柳澤さん そう。その時にちょうど、子どもの教育関連の情報を調べていて、長野県に面白そうな学校がちらほらできることを知り、「この地域、面白いかも」と思いました。それに、子育てするのに自然が豊かな地も良いかもな、と。そこからですね、「移住」という選択肢が出てきたのは。

―奥様も賛成だったんですか?教育移住という言葉もありますけど。

柳澤さん そうですね。賛成でしたね。だから、妻との合意形成のカギは「子ども」です。妻も当時の職場だと、まだ幼い子どもがいながら、2時間くらい離れた勤務場所となる可能性もあって。。

―お子さんがいる状況で、それはなかなかヘビーですね。移住する方向で考え出して、仕事はどうしようと思ったんですか?

柳澤さん こっち(長野県)で転職するしかないのかな、と思い探してみたりもしました。でも、あまりピンとくるものもなくて。でも、求人を見ていたら、当時、たまたま「ワークテラス佐久」を立ち上げるタイミングだったようで、その求人内容を読むと、これは面白そうだ!とピンときました。そして、早速、申し込み、直接現地を見に来ました。

―すぐ行動されたんですね!フットワークが軽くて素晴らしい。実際に現地を見に来てどうでした?

柳澤さん 話を聞いて、その場で「移住します!」と決めました(笑)。

―思い切りの良さ(笑)。そうすると、会社へ退社の旨を伝えるわけですよね。ありのままに伝えたんですか?

柳澤さん はい。でも、退社の旨を伝えたら、先輩が「休職という選択を考えられないか」とアドバイスをくれたんです。社内に、たまたま使えそうな制度があって、それを使えないかと。地域おこし協力隊のように、地方で働く、という文脈の際に使える休職制度でした。

―良い制度がありましたね。URさんも規模感は違えど、「まちづくり」でしょうし、ワークテラス佐久も「まちづくり」という側面があり、親和性がありそうな面からもOKが出たんですかね?

柳澤さん そうかもしれないですね。

-すると、「東京の会社に籍を置きながら、長野県へ移住」という着地になったんですね?

柳澤さん そうです。結局、合計2年間、休職させてもらいました。結果として退職という形になりましたが、今もU R時代の先輩や仲間とは意見交換を続けています。



「自分」を主語にする


―お子さんの教育関連情報から「移住」という選択肢が浮かび上がり、実際にその学校も受験されたと思うのですが、あれ、確か、その学校には縁が無かったんですよね?

柳澤さん そうそう。入ろうとしていた学校には縁がなくて。だから、「では移住自体、辞めるのか?」という話になりました。でも、最終的に、妻と話し合って決めました。
「このタイミングで移住しないで後悔するなら、移住してみたけどダメだった、そうやって一時的に後悔した方が良い」と。
子どもが保育園に行っている平日に、お互い休みをとり、妻とランチしながら、決めた思い出があります。

―奥様との合意形成もとれ、覚悟が決まった訳ですね。

柳澤さん そうですね。それまでは「子どもが」という主語でしたが、この時、「自分が」という主語に切り替わりました。

「自分が主語」というキーワードは、柳澤さんが現在行っている事業とも重なる視点ですね。後ほど深堀させて頂きますが、なるほど、ここに繋がるんですね。
当時の柳澤さんはその行動をとれた訳ですが、一般論、再現性が高い、という意味において、そのような行動をとれる為には、どのような要素が必要だと思いますか?例えば1年分の貯蓄があるとか、振り返ってみて、何か言えそうなことはありますか?

柳澤さん 会社に閉じこもっていないで、社外の人と交流をもっておくことは大切だと思います。当時の上司がそういう人だったので、勤務時間外に社外の人との交流もあったのですが、非常に刺激になりました。そうでないと、自分でも無意識のうちに、選択肢が狭まっていく気がします。

ーなるほど。確かにそうですよね。そういう「普段とは違うこと」に意識を向けるきっかけ、環境がないと、今までの延長線上にある選択肢しか思い付かないですもんね。

現在の「はたらく」


―今は完全に前職を退職して、ワークテラス佐久の運営、その他のプロジェクトに注力しているんですよね?

柳澤さん そうですね。移住して2年間は「休職」という形でしたが、正式に退社しました。こっちに来てからも、面白い人がたくさんいて、多くの出会いに恵まれて、ワークテラス佐久の運営会社を譲り受けることになりました。それが、株式会MoSAKUです。MoSAKUでは、次の現在5つの事業軸で、法人運営をしています。






―大変なことも多々あると思うのですが、柳澤さんご自身が、「やりたい」と思うことが事業に直結しているようで、素敵です。自分で納得しているからこそ、やりがいのある「はたらく」ですね。

柳澤さん そうですね。

-それに、柳澤さんの人生ストーリーというか、幼少期から音楽が隣にありましたが、その音楽に関する「Sakk Porano」という事業もあって、それもおもしろい。

柳澤さん はい、「自分」を主語に、主体的な取組みばかりなので、おもしろいですね。時間的余裕という面で、柔軟性も以前より増しましたし、子育て、仕事、納得いくバランスがとれています。

ー最近は、みんなが交流できる「場」をDIYで作成中のようですし、更に加速しそうですね。プロジェクトベースで、色んな人とつながり、様々な取り組みが生まれているんですよね?

-柳澤さん そうですね。最近は次のスライドを使って説明を試みていますが、組織に属していても、フリーランスでも、「個人」として繋がり、そこからプロジェクトを一緒に進めていく、生まれる、そんな形態も増えています。



-なるほど。DAO的であり、「超まちづくり」の一要素でもありそうですね。実際に、先程の事業軸の4つ目、「浅間コーラ」は、この文脈から派生して、嬉しい広がりを見せているんですよね?

柳澤さん そうなんです。企業に所属する人、行政に所属する人、それぞれが「いち個人」として応援してくださったり、それぞれの立場でできることを尽力頂いたりしました。

-それって凄いことですね!まさに資料にある通り、「垣根」を越えて、個人ベースで、プロジェクトで繋がる。イイ感じの「はたらく」ですね。この度は、貴重なお話をありがとうございました!!

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