見出し画像

歌人はなにが本当の仕事か?

「書く」と決めたときから、みんなあんまり言葉にしていないことを言葉にすると決めていたので、「これは相当孤立する勇気と覚悟が必要だぞ」と思っていた。

もう最初から覚悟していたからいいのだけど、今の自分には仲間もいないのでひとりで壁にむけて言葉を発しなければいけない。それがぼくのいまの役割だ。せめて死ぬ前は書くことがなくなってて、妻には「ごめんね、いつもありがとう」くらいですむようにしたい。

短歌雑誌からの依頼もあれだけ「商業主義」なんて言ったから、もう来ないかもしれない。実は言いたいことはたくさんあるし、そもそもまだ歌の鑑賞をしていない。

抑えていたことを爆発させるとこうなるんだ…。と自分でもびびっているけど、短歌について言いたいことを言いはじめたらもう止まらない。収まるまでしばらく書き続ける。

            ※

歌人の仕事は? って言われると、よく短歌をかいたり文章を書いたり選歌をしたりみたいなふうな答えの人が多いと思う。「じゃあ歌人の役割は?なんのために歌を作るの?」なんて言われると「うーん」みたいな感じになる人が多い。

わかりやすく言うと、こういうふうに考えればいい。

「歌人ってどんなふうにぼくたちの役に立つの?」

ということだ。いろんなところで、実はこれが曖昧な人が多いような気がする。最近は企業理念なんて言う言葉があって、業務内容の前にHPで短く「私たちはこんなふうに社会に貢献します!」なんて書いてあることがある。

これ、「会社じゃないんだから」って言う人もいるかもしれないけど、実はめっちゃくちゃ大事である。短歌をつづける上での「モチベーション」につながっていくことだから。

社会のなかでの役割は、当然ないよりもあったほうがモチベーションがあがると思う。

「わかりやすい短歌」で、「短歌ブームに乗っている人」は、「自分が短歌を書くことで、短歌というジャンルを世に広める」なんてふうに答えられる。本人にその気がなくても大丈夫。ぼくらはみんなそういうふうに「社会の役に立ってお金をもらいたい」と思っている。実際「短歌ブーム」の周りの人はお金が回っているから、それで十分である。

ぼくが指摘したいのは、「短歌ブームにのらないいままで短歌をつくる人」の役割・使命・ミッションとか何かである。

たまーに伝統とか、日本の心とかいう人がいる。ほんとかいな?と思う。民族の詩なんていったら過激派っぽくて、どうも「うちら右翼じゃないんだけど…」と思う。

実は日本経済が良くなろうと悪くなろうとあんまり歌人は関係ない。日本社会をどうするかみたいなのは学者や思想家がいる。日本の心とか日本の精神なんて言い方は何かをごまかしている。別に海外の人が短歌をやっていたっていい。

                ※

僕が守りたいのは日本ではなく、より細かくいうと、日本語である。日本という国は日本語が滅びても続くかもしれないが、日本語は、話す人がいなくなれば絶滅だ。日本人は日本語と切っても切り離せない。

しかし日本社会や日本経済はいまいいのか悪いのかわからないが、日本語はどんどん悪くなっているのをぼくは実感する。簡単にいうと、使える言葉の範囲がどんどん狭くなっている。選択肢がなくなっている。

日本語には専門の学者がいるので別にいいけど、歌人は社会ではあんまり使われない日本語をきちんと歌で使うことで、その一語一句の、ニュアンスとか用法とか、どんな感じかを歌のなかに記憶させる。地震を「なゐ」って読むことは歌人の間なら有名だけど、短歌を知らない人からは「何?」ってなるだろう。ちゃんと使い方というか知らないことも、生きた日本語として保存できるのだから短歌は優れた日本語の器である。

いや、「日本の精神」「日本の心」というのは、実はちょっと正確に言えてないだけで、おおむねかすっているのだ。日本の心というのは、「日本語の感情表現の豊富さ」に全面的に依存している。だから私たちが守らなければならないのは「心」ではなく「心をあらわす日本語表現」なのだ。まさに感情の器なのだから、短歌が保存する言葉はたくさんある。一首も無駄になる歌などない。

もちろん俳句もそうだと思うけど、いま「ブームに乗っていない歌人」は自分の存在意義を説明出来なくて、かなり劣勢である。

だから気落ちして「もうやめたい」なんて思ったりする。でもあなたの歌は、確実に日本語を保存することに役に立っている。

僕は以前、日本語が受け継がれた瞬間をまさに目撃した。

いづこより凍れる雷(らい)のラムララム だむだむララム ラムララムラム 

岡井隆『天河庭園集』

僕ら「未来」の会員ならこの歌はみんな知っている。ところが雷を「らい」と読むのは結構格好がいいのだけど、なかなか実作で使う機会がない。ある日、若い人が、雷を「らい」と読んだ名歌を作ってくれて嬉しかった。

灯さずにゐる室内に雷(らい)させば雷が彫りたる一瞬の壜 

小原奈実

美しい歌だ。まあちょっと鑑賞している暇はないのだけど、短歌は一瞬をぽっと言うのが美しいのである。小原さんは20代なので、岡井さんの歌はわからないのかもしれないけど、80代から20代へ言葉がリレーされる。このリレーが古い言葉でもできるのが短歌の役割を確認させてくれる。

雷はいかづち、鳴神、神鳴り、稲光(いなびかり:稲を育てる光)なんて言い方もある。ぜひ使って自分の心や言葉に保存して欲しい。

            ※
       
日本は戦争に負け、1946年に「現代かなづかい」が施行された。これはひらがなの問題だから、ゐ、ゑ、なんて書き方が死語になった。福田恆存を筆頭におおくの文学者や、入沢康夫のような詩人まで「現代かなづかい」に反対した。しかし歌人で表立って反対した人はいないかもしれない。そもそも第二芸術騒ぎでこちらはそれどころじゃなかったのかもしれないけど…。

それとセットで行われたのは漢字制限だ。当用漢字、常用漢字なんてのが作られ、漢字は書きやすいようにいまの形に改まった。作品上では塚本邦雄は正字歴史的仮名遣いで書いているが、抵抗なのかどうかはわからない。

歌人で「自分がなんで旧仮名なのか」なんてときに、アメリカの占領政策に反対という人はもういないと思う。しかし当時のGHQは日本語の見た目の美しさ、便利さ、識字率の高さ、実用性、いろんなものを見て、「この言語を残しておいたら日本は脅威だ」と思ったのかもしれない。議論が進まないのにとにかく「日本語を便利にするため」なんて言って、無理やり現代かなづかいを押し切ってしまった。あとから学者たちがどうするか悩んだけど、国語審議会は紛糾し、委員が辞めたり、すったもんだがあった。これを記憶している歌人が少ないことのほうが問題なのだ。

また、占領検閲と言って、日本はアメリカによる検閲が占領中もあった。だからメディアが検閲を恐れるのは、結構最近まで日本には検閲文化があったからではないか、と思う。自主規制とか自粛、なんてまともな国ではしない。

私たちが話している日本語は、つい戦後までは古典と接続していたのだけど、いまは古典の理解が遠くなってしまっている。難しい、わからないという生徒たちの反応。そして、現代文などを読ませる学校の国語教育も短歌俳句には薄情だ。

短歌はなにか「かっこいい」とか「落ち着く」とか、「心を揺さぶられる」のが第一で、あんまり意味を優先しなくてもいい。ぼくも「かっこいい」と思って歌を覚えてから、「えっそういう意味だったの」ってことはよくあるよくある。

いまの国語教育は作者の意図とか意味とか、そんな「西欧的な解釈」ばっかりで問いが立てられるから、その背後にある「おもむき」を見て取る教育はなされない。特にふたたび戦争をしないように注意深く日本語はチェックされてきたから、格好いいとか、勇ましいとか、なんか心を亢ぶらせる言葉は、よくないみたいに言われたりする。

でも日本語は国家のものではなく、個人のものだ。

個人が、そんな気持ちになったり、日常生活でいろんな喜怒哀楽にあいまみえていたりするのに、表現する言葉の語彙がたりなかったら、日本人はみんな感情を表現ができず精神疾患になってしまう。いや、現代が既にそうなのかもしれない。

短歌が「意味がわからない」「むずかしい」というのはおかしい。まず、どんな言葉か、その言葉でどんなふうに感じるか、それだけで十分。だんだん「上句と下句の関係」とか、微妙な感じみたいなのがわかってくる。そしたらもう自分でもその表現を使いたくなってくる。

あなたはそれだけで、日本語を守る歌人になれる。

格好いい、姿が良い、キリッとしてる、優しい、落ち着く、かわいい、おもむきがある、風雅だ、情趣がある、深山の趣だ、幽玄な感じがする、

「どういいとおもったか」をことばで表現するのは、批評ではなく鑑賞で大事なことである。

ぼくらは現代では、「可愛い」と「格好いい」しかほぼ使えなくなっているかもしれない。言葉が戦争を起こしたわけではない。それを言葉のせいにして封じてしまうのは、大変危険な西洋社会のやり方だと思う。

だからもう「日本語を自由に使えるようになりたい」と希望する人に、ひとつひとつゆっくりと、短歌を使って感情表現や、言葉にはしていないけど感じたこと表現する方法を少しずつ受け継いでもらうしかないと思っている。

                ※

「日本語の底(そこい)」という言葉を使っていたのは上田三四二さんだと吉川宏志さんから週刊時評で教えてもらった。いまの言い方でいうと、あまり用例のない言葉をきちんと保存しておくのが歌人に課せられた大切な使命だと思う。

しかし戦前とかの超有名な歌人の歌集は、いま古本屋でたたき売りみたいな状況になっている。もったいない。若い人が「ダサい」と思って読まないのだ。ぼくはときどき全集をかってお得な気がするけど、こんな光景はとても寂しい。

短歌を広めても短歌功労者にしかなれないけど、日本語をそっくりそのまま後の世代に保存しておいたら、でかした! ということで文化功労者になれるかもしれない。ぼくらは日本語に貢献するのだ。がんばって文化功労者を目指すのだ。次回こそは鑑賞を書く。がんばる。

この記事が参加している募集

よろしければサポートお願いします!! あまり裕福ではないので、本代のたしになるだけでも嬉しいです!