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文学と健康②~「健康」と「死」

文学と「死」について


ちょっと話題が飛びますが、今回は「死」について考えたことを書こうと思います。

私たちが学校でならった文学者って、なんとなく「早死に」っていうイメージがありますよね。

実際、明治期から昭和初期の黎明期の文学者は怒涛のように早逝しています。

ざーっとネットで調べられる範囲で、文学者の名前や享年や死因を上げていくと、

樋口一葉(享年24)…肺結核
石川啄木(享年26)…肺結核
正岡子規(享年34)…肺結核・脊椎カリエス(結核菌が背骨に入ったもの)
芥川龍之介(享年35)…自殺
太宰治(享年38)…自殺
宮沢賢治(享年37)…肺炎
夏目漱石(享年49)…胃潰瘍
坂口安吾(享年48)…脳溢血

書いてくときりがないので、ほんとに一部にとどめますが、これ以外にも夭折や早逝の多いこと多いこと。80歳を越えて生きた人って、志賀直哉くらいしか思い浮かばないかも。小説家ではないですが、徳富蘆花のお兄さんだった論壇人であり歴史家の徳富蘇峰も相当長生きだった印象があります。(今見たら94歳!晩年まで元気に執筆していたそうです。)

歌人では斎藤茂吉も70歳、これもまあ長生きだよね、という感じです。

早逝した文学者たちは、たとえば宮沢賢治だってたった1枚新たな遺稿が発見されただけで大騒ぎになるくらい研究されているわけで、寿命と文学的評価は全然関係ないとは思います。ただ、早逝した理由を考えると、やっぱり当時は色んな方面の医学や知識が未発達だったというのは大きいと思います。

いま、医学を習った方がたとえば太宰治や石川啄木のことを「人格障害」だとか、症例として研究したりしているらしいですが、なんかそれは、対象になる文学者の作品に対するリスペクトを欠いているような気がしてぼくはあまり好きではないです。(きちんと読んだわけではないので勝手な感想ですが)

実際、精神的な問題にしたって当時の医学ではどうしようもないものを、ある程度文学が代行していた部分があると思うし、テクノロジーがいくら発達しても、彼らの作品の価値が下がることはないと思っています。

一応書いておきますが、太宰は存命中から重度の薬物依存でした。

『人間失格』にも、「カルモチン」という薬が最後に出てきますが、これはいまでいう「ブロムワレリル尿素」のこと。睡眠薬ではありますが、過剰摂取したときの致死率が半端なく高いので、いまは3段階くらい後発の新しい睡眠薬が出ています。現在流通している睡眠薬をたくさん飲んでも死なないですし、安全性は格段に上がっています。

太宰はこれに加えて、「パビナール依存症」だったようです。これもいまでは聞かない薬物ですが、「オピオイド系」というとピンと来る人はいるかもしれません。現代のアメリカでいま猛烈に中毒者を増やしている「フェンタニル」と同じ系統の薬で、依存性が高い危険な麻薬であり劇薬です。

芥川も自殺とはいいますが、タバコは一日180本吸ってたらしいし、自殺の際に使用したと言われる睡眠薬(バルビツール酸系)も、現代では当然あたらしい薬に置き換わっていて、使用は控えられているくらい危険性が高い薬です。

安吾に至っては、ヒロポン(覚醒剤)の中毒になって入院したり、当時の名前でいう精神分裂病(統合失調症)になっていたらしいのですが、インド哲学を勉強していろんな語学を習得して治すという荒療治で統合失調症のほうは克服できたらしいです。

しかし、中毒とか依存症だけはどうにもならず...。ヒロポンでは何回か騒動を起こした記録が残っています。

(しかも安吾は、自身のヒロポン体験談を堂々と「安吾巷談」というエッセイで披露していて、全然ヒロポンが悪いことではなく、むしろ流行のように当時の文学者などにも流通していたことがわかります。「ヒロポンは酒と一緒に飲むといい」とか、いろいろ信じられないことが書いてありますが、これもいま青空文庫で読めますので、興味がある方はぜひ)


当時あたりまえに流通していた薬は現代では考えられないくらい危険性や依存性が高かったのです。

ヒロポンはドイツ空軍で「死の恐怖を軽減する目的」でパイロットたちに与えられ、実際に効果はあったかもしれませんが、依存性がわかっていち早く処方が控えられるようになったのもドイツが最初でした。日本の場合は戦後もふつうに流通していたらしいので、(「ポン中」という言葉が残ってるくらいです)いまでは考えられないですが「覚醒剤を普通に服用していた」ということになりますよね。

漱石の胃病のところにも、「神経衰弱」とかいろいろ書いてありますが、当時の治療なんてかなり雑だったし、苦しみも大変だったと思います。

啄木や一葉や子規が、結核だったのは周知の事実だと思うのですが、治療法がほぼない時代です。森鴎外は軍医だったので当時の結核の専門医とつてがあったらしく、樋口一葉が結核だとわかったとき、その才能を惜しみ、一流の専門医を派遣しています。それでも「回復は絶望的」だったそうで、鴎外もいたく無力さを痛感したようです。「せめて葬儀は正装の軍服姿で参列させてほしい」といって、遺族に丁重に断られています。

室生犀星も芥川が死ぬ前に一度訪問を受けたのですが、あいにくと留守で、会えませんでした。その後、芥川が自殺しだことにかなりショックを受けてしまい、「自殺するとわかっていれば絶対に思いとどまらせたのに...」と後悔するような記録が残っています。

実際当時は結核や天然痘なども簡単に治療できなかったし、簡単に「こころの病気で相談」とはいかない時代でした。全然現代とは医療環境が異なります。

だから、当時の感覚で「死」を考えるとすると、現代ではちょっと時代遅れになるのかもしれないな、と思いました。

実際ぼくも、幼い頃から文学にかぶれていました。いじめられっこだったので「死ぬこと」を考えない日はありませんでした。大人になってから、実際に精神疾患で入院したこともありますし、「死」について歌った歌も圧倒的に多いです。

ただ、今から考えると僕が考えていた「死」って、当時の、たとえば「太宰治の死生観」みたいなのとちょっと似てるのかな、という感じがします。

「生まれてすみません」みたいな感覚。

あとは救済とか安らぎとか美しさとか、なにかそういうものに死を置き換えようとする意識でしょうか。現代において、こういう死の捉え方はむしろ古典的過ぎて、変な話、いまの医療の環境とずれた、一般的なものではなかったのかもしれないと思いました。

おそらく、誰かの死を嘆く、悼む、という行為には、どうにもならないものへの諦めの念もあったでしょうし、その人の事を忘れないように美化したりするような意味合いもあったでしょう。実際太宰だって「桜桃忌」になっていますし、この頃の文学者の命日はほぼ「忌日」といって、記念日みたいになっていますしね。

あと、ぼくはずっと自分の内面を掘り下げていくような感じで文学を使っていましたが、やっぱり太宰治の『人間失格』は、いま思うと空想上の死だと思います。

まあ、なんとなく動けない体で「死にたいなあ」「こんなことなら死んだほうがましだなあ」と空想するときには、こういう「死」は便利ではあるのですが、実際に自分の死に直面するのは全く違うことだと、今回手術してみてはっきりと感じました。

確かに病気はとても苦しいです。今ですら心の病って苦しいのに、当時の人の苦しみなんて全く想像はつきません。でも変な話「睡眠薬で死ねる」時代とは、現代は全然違います。「ぼんやりし」て死ぬのは本当に大変な時代になってしまいました。

「死」への直面具合がぜんぜん違うし、「死に方」なんて簡単に決められない時代なので、私もいつまでも昔の人の「死生観」にこだわっていないで、健康について真剣に考えてみようと思ったのです。

健康は「幻想」という考え方         

  
まあ、別に文学に限った問題だけではなくて、私の父も仕事熱心ではありましたが、「健康」にはまったく無関心な人でした。

なんとなく、

「好きなことをやって、死ぬときがくれば死ねればいい」

みたいなことを何度も口にしていた記憶があります。実際、「健康なんて幻想だ」とか、「深く意識していない」、という人、現代でも多いと思うんです。旦那さんがそういう感じで、糖尿病になりそうで困っているとか、タバコを辞めるようにいくら言っても聞かないとか。そんな人は、現代でもざらにいるだろうし。

ぼくはそもそも「健康推進派」でもなんでもないです。実際、20年以上愛煙家でしたし、「禁煙」したのは健康に悪いからではありませんでした。(あとで書きます)

むしろ心情的にはいまでも健康なんてどうでもいいと思っているし、多少ラーメン替え玉したところで人生変わらないだろ、とおもうんですが...。どうも私の場合、それを億面もなく主張して2年で死ぬのはいいとして、またあの「手術」で全力で救命されるのはなんともカッコ悪い...。そのたびに泣き叫んで「助けて~」というのはどうも後味が...。

別に文学は人の役にたつための学問でもなんでもないとは思います。ただ、まったく役に立たないわけでもなくて、ときにはいい仕事をするものです。健康とは相性が悪いような気もしますが、文学は社会の変化に敏感で、社会の変化にあわせて「ものの見方を変えたり、考え方の変化をあらわす」のが得意だと思うので、健康に対する見方をちょっと変えることはできるかもしれない、とは思いました。

最近では、タバコが副流煙で他の人に迷惑だから、ということでなんかやり玉になっています。別に吸ったって構わないだろ、とは思うんですが、この禁煙推進のやりとりって、ほんと粗雑すぎて呆れるばかりです。ちっとも「文化的」ではありません。

確か宮崎駿さんのアニメで、とある「禁煙推奨団体」が「アニメの登場人物がタバコを吸っているのは、喫煙を助長するから、子供向けの映画にはふさわしくない」みたいな抗議をして、黙殺されていたようなことを覚えています。

表現手段にまで禁煙を持ち込むのは、ぼくもどうかと思いますし、実際タバコって、僕が子供のころまでは電車の中にでも銀色の四角い灰皿が置いてあったくらいなので、ほんとに文化として定着していたものです。

たとえばコーヒーやタバコ、お茶、お酒などが「嗜好品」と言う名前で真っ先に思い浮かびます。

みんなこの日本語の嗜好品の、特に「嗜」のニュアンスをあんまりうまく捉えきれていない気がします。別にこれ「好きなもの」とか、「ぜいたく品」とか、そういうニュアンスだけではないんですよね。

「嗜み」と書くと「たしなみ」になりますが、日本語になると単純にお金をじゃぶじゃぶ使うとか、贅沢するとか、そういう意味合いだけではない気もします。

辞書を借りると、単純に「好き」というだけではなくて、「心得がある」とか「つつしむ。気をつける。用心する」という意味があるのがわかります。

お酒にしたって飲みすぎてべろんべろんになって駅のホームで酔いつぶれている人を、「お酒嗜んでるね」なんていいませんし、コーヒーだってコンビニで手軽に飲めるコーヒーをさっと飲んでさあ仕事っていう人に、「コーヒー嗜んでますね」なんて言わないと思うんですよね。

コーヒーにしたってお茶にしたってお酒にしたって、種類や銘柄があったり、その店独自のこだわりがあったり、ブレンドがあったりします。

だから、ちょっと奥が深いというかこだわりがあるというか、昔ながらの喫茶店で特定の銘柄のコーヒーを指定しながら、小説を読んで紫煙をくゆらすなんて、最高にタバコやコーヒーを「嗜んでる」感じがするじゃないですか。

利き酒とか、ブレンドとか、ちょっと気軽にも楽しめるけど、知ると奥が深くなっていくのが嗜好品の醍醐味で、その長い楽しみの歴史を否定することはできない気がするんですよね。

嗜好品を、科学的な見地からいろいろ定義したり否定する人は今でもいます。ただ、科学的にみることばかりに気を取られると、個人の嗜好の「嗜み」の意味とか、文化の意義を軽んじることになるんじゃないかとは危惧しています。

適度な「嗜み」は、心に余裕をもたせ生活を豊かにしてくれるはずのものです。依存や中毒になるのは論外ですが、つつしみがあったり心得ている人が、他人に迷惑を書けない範囲で適度に楽しむのはいいんじゃないでしょうか。だから、嗜好品という言葉に嗜という字がついているのではないかな、と思いました。

言ってしまえば人文学や芸術なんて「好きでやってる」と言われればもうそのとおりだし、反論もできないんですけど、嗜好だと定義すると、ちょっと違うんですよね。贅沢とまではいわないけど、ちょっとした無駄というか、心の余裕とか、そういうものをあらわすものが、文学や芸術などに象徴される「嗜好」だと思うのです。

なので、煙草もお酒も、コーヒーもお茶も、体に良い悪いで一刀両断するものでもないかな、と思います。そもそも何が健康にいいか悪いかなんて、最近になってやっとわかってきたことだし、健康に気をつけていた歴史よりも、煙草やお酒を嗜んでいた歴史のほうがはるかにながいわけだし。

別に反対派を否定するわけではありませんが、この辺すごく微妙な問題なので慎重に考えなければならないと思いました。

とはいえ、ちょっと考えてきたみたいに、明治時代の医学と現代の医学を一緒にすることは全然できないので、その差を埋めるための考え方を、自分なりに提示することはできるかもしれないと思いました。

ほんとうに「死」について考えていたんだったら、とことん考えたほうがなにか新しい発見があるかもしれないとおもったのです。

ちょっと長くなりましたので今日はこのへんで。

ではではでーす。












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