心愛*神経難病患者

2013年に神経難病と診断され、現在寝たきりとなった私。 母と3頭の愛犬さんに囲まれて…

心愛*神経難病患者

2013年に神経難病と診断され、現在寝たきりとなった私。 母と3頭の愛犬さんに囲まれて、楽しい日々を送っています。

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  • 〜私と病気〜

    2013年に進行性の神経難病を発症した私 発送から経過、現在のことを綴っています。

最近の記事

#27 お腹の機嫌が悪い

医療のある生活私の現在のスタイルは NPPV、持続吸引、足の指から酸素モニター この3点セット。 動きける人だったら邪魔なんだろうな〜なんて、自分が寝たきりなんだという現実を突きつけられています。 水分さんと私のお腹の機嫌私は水分時間を多めに設けていて、 6:00、9:30、12:00、15:00、18:00、21:00 700mlずつで計2100ml 膀胱ろうカテーテル留置があったり、 便が硬めな私には、もう少し多めでも良いと言われますが、そんなに入るものでもないので…

    • #26 絶望感…希望の先に

      自分の病気が進行性だと言われてから【絶望感】がまとわりついています。 癌患者で余命宣告された人の恐怖心や不安感とは違うと思っています。 私は後遺症がきっかけで抑うつ傾向になっていたので、精神科でのカバーをしてもらっていますが、この絶望感は伝えても伝わらないし、治療薬もない。 私なりの対処法は、日常の中に"希望"を抱くこと。 私の全てである3頭の愛犬 姫ちゃん、ミッキー、俺様 この子達には節目の行事は必ずしています。 誕生日は絶対! 節分やひな祭り、ハロウィン、クリスマ

      • #25 いのちの選択

        呼吸苦ここ最近サチュレーションが85%前後という状態が続いていました。 かかりつけの神経内科医にまず相談しましたが、話が進みません。 F先生に連絡をとり、直ぐに受診することになりました。 F先生による診察受診をして、少し診察をして、今までの経過を話したら、次はF先生の番です。 まず今の私の呼吸の状態についての説明を30分程かけてゆっくりとしてくれました。 そしてそれに対する対処方法。 ①NPPV ②気管切開 どちらがどれくらいの効果があり、どんな副作用があるものなのか?

        • #24 お向かえさんの存在

          時間に従う私今のわたしはというと 流れる時間に従って生活しています。 時間には背くことができないので仕方なく。 本当のことを言えば、私だけ1秒を1時間にして欲しいと思っていますが、現実的に不可能ですからね。 母の朝は早い母は私との生活を維持するべく、朝早くから仕事へ向かいます。 その前に私の朝ごはんを胃ろうから注入してくれます。 なので毎日4時起きです。 私も4時に起床しますが、朝食後に入るお薬の副作用で母が仕事に行く頃にはまた夢の中。 起きていようと思うのですが…

        #27 お腹の機嫌が悪い

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        • 〜私と病気〜
          27本

        記事

          #23 家族になるため成功率30%と闘った父

          プチ喧嘩テーマパークで父に会ってから、父とたまに一緒にご飯を食べるようになり、病院受診の日は一緒に行くようになり、母と父と私でいる時間が増えていきました。 そんな時父と母がプチ喧嘩。 父には奥さんがいたらしい。 普通はこの時怒るべきことは、再婚していたことをなぜ隠していた?とかかな?と思うけど、母は違いました。 「今の奥さんは、こっちに来てること知らないんでしょ?可哀想じゃん?何してん?」 と怒っていました。 姉になっていた子どもはいないと言っていましたが、父の死後、財産

          #23 家族になるため成功率30%と闘った父

          #22 父との再開

          父自己紹介でお話しした 【父は私が3歳頃に母と離婚しましたが、この別れも後にhappy endをむかえますが、またの機会にお話します。】 この部分について書こうと思います。 母が20歳、父が22歳の時に私が生まれましたが、結果的に3年後、離婚し母と私で実家に帰ることとなったのです。 記憶に残る白い車しかし私の記憶には、家の前を白い車が何度も行ったり来たりしている情景が残っているのです。 それは子ども心に触れてはいけない事と捉え、つい先日まで誰にも話してきませんでした。 父

          #21 居場所

          誤診だったらな先生、治療はこのままでいいんだよね… 診断は合っているんだよね… 診察に行くたびに言いそうになる言葉です。 誤診だと言って欲しくて愛媛まで行ったあの旅。 診断は間違っていなかった。 たまに見かける、治らないと言われている神経難病を治癒させたという民間療法のHPを開いてみる。 根拠のないことばかり。 大学卒業今年の3月で私は大学を卒業しました。 これはF先生も喜んでくれました。 でも私は1つの居場所がなくなったような寂しい感じ。 あの大変だった日々は、私に

          #20 母は無敵

          母の重い気遣い母は私の前では、楽しそうには食べますが、美味しいと言って食べません。 好きだったお刺身も、私が嚥下障害になってから食べていません。 少し重い母の気遣い。普通に食べて良いのに。 本当の食事食べれなくなってからの私は、楽しみが失われた気がしています。 食べること、栄養が胃に送り込まれているので、生きてはいます。でも食べてはいません。 味わっていないのです。美味しいと思えない。 ただチューブから甘ったるいものが胃に送り込まれていくだけ。 私が今、何かを口にする機会

          #19 サンタからのプレゼントはあまりにも残酷なものだった

          2022年12月25日(日)ブラックサンタは私に再発というプレゼントを落としていきました。 25日の夜は、お寿司やチキンなど、各々が食べたいものを買ってパーティを楽しみました☺︎ 一夜明け26日の朝、いつもの様に母から朝食を食べさせてもらい、一口飲み込んだ時に咽せこみ、食事を一時中断し、呼吸が整ってから再開しましたが、また咽せこみました。 何かおかしいと思い、母はF先生に連絡をとり指示をもらい、緊急時提携先の神経内科を受診しました。 F先生から指示はいっていたので、ス

          #19 サンタからのプレゼントはあまりにも残酷なものだった

          #18 私を見る視線

          大学入学を機に母と共に家を出た私は、人の手を借りるようになり、祖父母の家へと舞い戻ってきた。 その話題はこの地域では直ぐに広まり、祖母とあまり近所付き合いのなかった人まで、私の話を聞きたくて、祖母が庭に出ていると集まって来るようになっていました。 祖母も自分が人気者になったかのように、私のことをペラペラと、少し大袈裟に話しているのが耳に入ってきます。 母は仕事で日中はいないので、その間は自分が介護をしていると大口で言い張る祖母。 本当のところは、祖母は何もしていません。

          #17 本格治療スタート

          愛媛から戻った私達は、F先生の診察へ。 F先生も他の医師と診断が合致したことで、治療への迷いがなくなったように感じました。 治療については、どちらの医師とも違うものを考えられていました。 愛媛ではエンドキシサンパルス+ステロイドパルスをメインという説明でした。 しかし、F先生が選択した治療はケシンプタ+免疫抑制剤内服+ステロイド内服+免疫グロブリンというものでした。 これは、自己免疫介在性疾患にも多発性硬化症にも悪さはせず、かつ多発性硬化症の進行抑制に繋がる治療だと説

          #17 本格治療スタート

          #16 誤診への希望

          3日かけ愛媛へ到着。 F先生が推薦する専門医です。 ちゃちゃっとは終わりませんでした。 私の話を聞くのに1時間。 診察に1時間。 今後の治療のアドバイスのお話で1時間。 3時間ほど診察室に入っていました。 愛媛の専門医のお話では、多発性硬化症と何かしらの神経疾患が混在している可能性があるのではないか?という話になりました。 これはF先生も前から言われていて、他の神経免疫介在疾患(自己免疫性脳炎など)が混在しているかもしれないと言われていました。 でもメインにあるのは多

          #15 愛媛へGO

          大学4年になり、私は四肢麻痺の状態になっていました。 ケシンプタが出るまでの時間稼ぎで使っていたはずのタイサブリ出したが、JCV抗体が高いため継続に危機感があり中止してしまいました。 ケシンプタがこの病院で使用できるようになってからもう半年になります。先生はまだ使用に踏み切りません。 そうな時、母が 「先生は娘の治療は諦めていられるのでしょうか? そうなのでしたら、私は諦めていませんので、治療してくれる専門の医師の元へ行きたいと思います。」 私もF先生も驚きましたが、

          #14 生活の変化

          相談支援員さん 引っ越し後直ぐに、相談支援員さんが自宅に訪問してくれました。 関東の方にも担当の相談支援員さんがいたので、実家に帰って直ぐに行政サービスが受けられるようにと、こっちの相談支援員さんに繋いでおいてくれました。 これから私が受けるサービスは ・訪問リハビリ ・訪問入浴 生活してみて、ヘルパーの利用を検討していこうとなりました。 現在の第一優先は大学の講義なので、私的にも色々な方に出入りされると邪魔だったのです。 そして、手当や年金受給のお話もしてくれて、私

          #13 学習スタイルの変化&カミカミ君との出会い

          大学3年になる少し前の私の状態は 両足は少し重力に逆らって持ち上げられる程度、歩行はできないくらいまでに落ちていました。 電動車椅子や介護用ベッドなど必要ものは揃えていましたが、コロナウイルスの影響で車椅子だけは工場が停止していたりで予想よりはるかに納品が遅れ、納品されたのは申請が通り発注をかけてから9ヶ月後のことでした。 予定では3ヶ月後だったので業者の方も驚かれていました。 車椅子が納品されるまでは発注元の不備なので、そちらから車椅子を借りて繋いでいました。 そんな中

          #13 学習スタイルの変化&カミカミ君との出会い

          #12 隠し事は退学

          私が退院する日に先生と母が話していたことは、これからの私のことだったようです。 私達親子は、昔から隠し事しないという約束があったのですが、このお話は少しの間、母は自分だけの秘密にしていました。 母にとってとてもショックな出来事でもあったし、私に話してしまったら、私が壊れてしまう。 そして、それを母が一緒に立て直す勇気がその時はなかったと言っていました。 私がなぜだ?なぜだ?どF先生に聞いてくる様子に、母がまだ私に病態のことを話せていないと察した先生が、母の代わりとなり説