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花見の花見がにぎわったころ

あのとき、時代も人もキラキラしていた。
駆け出しのクリエーターと新人画家や伝統工芸の職人のわたしたち。概ねみんなお金に縁はなかったが、さほど気にならなかった。明日はすぐそこと、手が届くところで何かが起こる予感を感じていた。
 
京都芸大卒の友人夫妻とその友達たち、勤め先の同僚や親戚たちと何かと頻繁に行き来した。陶芸家の窯開きや展覧会のオープンに出席したり、芸大卒で仏門に入り、長く住職不在の荒れた山寺に入った友人の先輩を手伝って、その場限りの小坊主役を買って出る、映像作家の撮影に参加して、その時々にほかの人には味わえない至福の時間を満喫していた。
 
その頃のわたしたちは概ね予定を言うことはめったになく、行き当たりばったりが常だったが、わたしたちには不思議と自然に感じられた。
 
桜が満開の時期、恒例のランチに誘われ、迎えに行くと弁当を持参で出かけようという。「あーあ、めんどうくさい」の口癖を繰り返す友人は、言葉に反してわたしと息ぴったりに手慣れた手つきでおにぎりや総菜を猛スピードで手際よく調理していく。われらふたりは右手にお茶やジュース、左手に山盛りの弁当をかかえて表に出ると、じりじりと待ちくたびれた彼女の夫に「急いで早く」と軽自動車に詰め込まれ、やっとついた先は、小学校の遠足で行ったなつかしい植物園だった。
 
この日の目的は植物園での花見だった。芸大連中の花見はなにもかもが際立ってパフォーマンスが派手で、周りを圧倒していた。すでにほろ酔い気分の音大卒のギターリストが自慢のブルースをガンガン鳴らし、ちょっとしたライブのようだった。子連れのメンバーは子供とダンスしたり、子供たちはかけっこで大歓声ににぎわう。こうしたパーティの合間を縫って、時折さやさや風に揺られて桜の花びらが舞う風流にその場が盛り上がる。
 
そこでなにか突き刺さるものを感じた。そうだった。植物園とは植物を研究・普及・保護し、住民に植物を観賞する場を提供する施設、つまり植物を「花見」させることが専門である。われわれはその場所に陣取って「花見」をしている。植物園という大きな「花見」の中にプライベートな「花見」を作ったというわけだ。さすがに美大生らしく、当時流行したアンデパンダンライクで斬新なアイデアだと感心するばかりだった。
 
今なら植物園で花見をするなど「けしからん」と警察がやってくるような出来事でも、当時は寛容で何組もの花見グループが騒いでも、セキュリティが来るわけでも、警察が乗り込んで来るわけでもなかった。
 
われわれは楽しい時間への感謝の代わりに、だれが言い出すでもなく、それぞれが黙々と掃除して、元通りの美しい植物園に戻して解散する。口々に「楽しかった、ありがとう」「また来年」の挨拶で惜しみながら別れた。
 
植物園での花見はその年一度きりだった。次の年は親友夫妻の引っ越しと重なり、花見は引っ越しパーティに姿を変えた。翌年はわたしが海外出張で参加できず、帰国後、土産をネタに祝杯をあげたのが最後で、親友は当時の夫と分けれ、スペインに移住した。現地で画家として開眼し、めきめきと力をつけた。今では売れっ子の画家として豪華客船の世界巡りに招待されたり、世界各地で開催の展覧会を巡る日々を送っている。
 
わたしたちを大いに楽しませてくれた京都府植物園は、2024年の今年、創立100周年を迎える日本最古の公立総合植物園である。この京都府立植物園は、大正天皇の即位記念に内国博覧会の用地として、上賀茂神社の境外末社「半木(なからぎ)神社」の鎮守の森を敷地に、結果的に「大典記念京都植物園」となったと案内されている。
 
計画通りの博覧会でなく、植物園になったおかげでわれわれはあの年、盛大に花見を楽しんだ。後にも先にもたった1つの植物園の思い出は、あの「花見」の「花見」がいかにもパーフェクトで、「次」がなくてよかったと思うのである。
 

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