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noteの風土が生み出している"内輪ノリ"について

昨日、cakesのホームレス記事炎上に関するnoteを書いた。

今回炎上したことによって、記事を書いたライターさんのnoteに注目が集まり、いくつかのnoteを問題視する声が上がった。その中のいくつかのnoteを私は違和感に気づけず拡散したり、評価してしまっていたことについて、自らの倫理観のズレにショックを受け、このnoteを書くに至った。

このnoteを書いたことで、コメントをくださったり、noteで話題にしていただいたり、Twitterでご意見や感想をいただいたことで、さらに自らの認識の甘さを思い知った。

私は前回書いたnoteで、自分の問題点として倫理観の欠如だけしか挙げられていなかった。しかしこれこそが問題で、自分が内輪ノリの範囲を抜け出せないまま問題を捉えてしまっていることに気づけていなかったのだ。

Twitterで元屋みやさんに指摘されて気づいたのだが、私は結局ずっとばぃちぃさんのnoteを読み続けている者=身内として問題と向き合ってしまっていた。だから、ばぃちぃさんの記事の温度感や距離感がわからない状態であの記事に触れた場合、どう読み取れるのかという視点が欠けていたのだ。

あの記事で初めてばぃちぃさんの記事を読んだ人は、もちろんばぃちぃさんとホームレスの方々とのこれまでを知らないし、強烈な違和感を覚えたのだろうと思う。しかし私は、わずかながらこれまでのばぃちぃさんの記事を読んでいたことで、ばぃちぃさんが使う言葉に脳内補正をかけながら読んでしまっていた。

例えば、「ホームレス=ばぃちぃさんがこれまで取材してきた、野菜を育てているホームレスの方とか、料理が得意な得意なホームレスの方のこと」と思ってしまうようなことだ。これは、ばぃちぃさんの記事を初めて見る人にはもちろんできない解釈で、ホームレスという言葉に該当する全ての人を想像してしまうのは当然のことだ。

つまり、前回にも書いた倫理観の欠如に加え、一部のコミュニティの中でしか通じない表現を使用してしまったことも、今回の問題の一つだったのだ。


そして、もしかしたらcakes編集部も、この内輪ノリを脱せていなかったのではないかと思い始めた。cakes編集部が内輪でしか通じない言葉というものに思いを巡らすことができず。、ばぃちぃさんの記事には多くの人に伝わらない表現が含まれているということに気づかなかったのではないかと。

cakesではnoteのユーザーが連載を持っているため、私の認識としてはnoteの次のステージとしてcakesがあるという印象だ。だから、noteの風土を色濃くついでいるように思う。そのnoteの風土やシステムにこそ、内輪ノリから抜け出すことができない原因があるのではないかと考えている。

noteは自分から積極的に行動をしないと、なかなか自分と近い感覚を持っている人のnote以外には出会いにくいユーザーインターフェースになっているため、基本的には、違った意見の人と出会いにくい環境だ。

そして、これはnoteの良いところでもあると思うのだが、批判のコメントがつきにくいため、炎上でもしない限り、倫理観の欠如や失言について気付ける機会が少ない。

今まではnote編集部のおすすめを読むことで、自分となかなか交わることのないような方々のnoteが読めると思っていたが、note編集部にも内輪ノリのようなものが存在しているとすれば、結局同じようなnoteにしか出会えないことになる。

自分と異なる考え方を持つ人と出会うことができなければ、サービスがガラパゴス化してしまい、言葉はどんどん小さなコミュニティでしか通じないものに進化し、考え方も偏っていくだろう。

新しい風を取り入れにくい風土であることで、逆に優しい世界を維持できている部分はあると思う。でも、優しい世界=寒い内輪ノリになってしまっては危険だし、不健全だろう。note編集部には、内輪ノリに迎合せず、空気が滞留しているところに新しい風を吹かせて欲しいと願っている。


コミュニティの内部にいると、なかなか内輪のノリというものに気づくのは難しい。でも、曲がりなりにも文章を書いている一人として、言葉にはコミュニティ特有の意味が付与されてしまっていることに気付けるようにならなくてはいけないと思う。


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