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腑に落ちてたまるか

「今はそういう時代ですよね、女の子同士が結婚する展開が物語にも出てくる。何と言ったらいいかわからないですけど」「大丈夫、あの人がいなくても平気だよ、むしろもっと良くなるよ」「もうすぐ女の賞味期限切れじゃん」

全部、私と会話していた人たちが放った言葉だ。心の中にわんわんと妙な音が響いて、でもそれは私にしか聞こえず、この違和感をどうしたらいいのだと苦しくなっているうちに会話は次へと進んだ。喉元に詰まった言葉たち。こんがらがってはいるものの、言いたいことの本質はちゃんと自分で握っていた。それでも外には出せなかった。

そういう時代ってなんですか。なんといったらいいかわからないとはどういうことですか。あなたは何をご存じですか。責めているのではなく、その言葉の前段階にある心と思考の回路が知りたいんです。あの人がいなくて大丈夫なのは、私ではなくてあなたの方です。私は大丈夫ではありません、心の支えを奪われた気分です。それなのに、どうしてそんな風に励ますんですか。賞味期限なんてことばを、生きている私たちに当てはめるのは全然好きじゃない。どうしてそんなふうに思うの、受け売りではなくてあなた自身がそんな風に本当に考えているの。

いくらでも問いがでてくる。喉元と鳩尾の間に鈍い痛みが走っている。もやもやした感触に気を取られて息をするのを忘れてしまう。こんなことが毎日少なからず起こる。誰かにとっては些末なことでも私には悲しみの粒として残る。過敏だと言われてまた悲しむ。じゃあ私、どこで自分の「大切」を守ればいいの?

読んでいた本の中で、「勇気とは恐怖を感じないことではなく、怖くてもやることだ」という言葉に出会う。とても腑に落ちる。そして私にはまさしくその勇気がないのだと思う。言わなければ変わらないのだろうか、跳ね返りで私が傷ついたとしても。言うことが正義なのだろうか、場が崩れたとしても。風が吹けばいずれ去るようなもやだけではない、このまま放置すれば私の胸に根を張るであろう種もある。あぁ、この人たちを嫌いになることはできない。それでも今は会いたくない。心に色があるのなら、きっと今竜巻みたいな色をしている。

行き場のない気持ちを、どこか明確な場所へ向かわせるべきなのか、それともそのまま消化されていくのを待つべきなのか。解はないし、苦しい。ただ、「違和感を持たない私じゃなくてよかった」と思っている。誰かが(私を含む)傷ついたり引っかかったりする言葉に、私の心が素通りしないでくれて、よかった。攻防を繰り返すような戦い方はできないが、目の前の物事を麻痺した感性で眺めるのは嫌だから。

どうしたらよいかわからなくて、ひとまず文字を起こしている。自身と向き合う手段を持っていることは救いだ。風のない午後、部屋の真ん中で。

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