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灯台の足元で

絶対好きじゃん、と思ってその時が来るまでしばらく大事に取っておく。私にはそういう癖がある。最近で言うと、Netflixで配信されている『LIGHTHOUSE』。星野源と若林正恭のトークバラエティ全6回。こんなの絶対好きじゃん、でも6回なんてすぐ終わっちゃうから勿体ない見方はできないじゃん。

満を持して、#1を見た。許されるならば、肩をそっとさすらせてほしいと思った、2人の。同じように味わいたい人たちがいるだろうし、何が語られていたかには触れないでおくけれど、彼らの足元と同じ暗闇が私にもあるのだと、届かぬ声で伝えたかった。

少し話の筋を脇へ。よく考えるのだけれど、私が捉えている「私」の姿を、周囲の人はどれほど知っているだろう。というか、私自身も「私」の姿をどれだけわかっているのだろう。明るくて、暗くて、傷ついていて、わかりやすく、わかりづらく、他人の目を気にし、どん底にいたかと思えばよく笑う。ちょっと切り取ってみよう、くらいの気軽さで書けばこんなことがでてくるが当然全てではない。比重の順に並べようとすると自分でも頭を抱える。人間に「ほんとう」も「うそ」もない、全部表裏一体だと思っている質だが、相手によって「見せている顔」「見ようとしている顔」にばらつきがあるのは事実だと思う。

鉛筆で掠れたように塗った色、そんな部分を心の奥の方に持っている。ざらついていて、誰にも触れられたくない。と同時に、優しく抱きしめてほしい。相反する気持ちでどくどくとする何かが生んだ色だ。私からすれば既視感の強いものだけれど、他人には見えているだろうか。気がついている人はいるだろうか。

(こういうの、明るい感情に対して感じることはないから切ないものだ)

話を戻すけれど、『LIGHTHOUSE』を初めて観た後、実家に勧めようと私は思った。よかったよ、気が向いたら観てみてよ。そう送ろうとしてふと考える。映像を観ながら家族は、彼らの話に何度も頷く私の姿を想像したりするだろうか。足元の暗さに共鳴していることに気がつくだろうか。この問いと番組が魅力的であることは別の話なのでおすすめは結局するのだが、生まれた時からそばにいた家族でも/だからこそ、私の薄闇が見えているかと言ったらそうではないだろう。私にとっては自分の核とすら思っている部分でも、周囲に届くほど透過することなく存在しているなにか。そのなにかを、昇華させたい気持ちとそのまま乾きとして抱えながら生きていきたい気持ち。あー、私ぐらぐらしながらなんとか歩いているよなあ。きっとずっとこうなんだろうな、悔しいかな、嬉しいかな。


今日はよく眠ったから、前向きな気持ちでこんな振り返りを書けるのだ。身体と心は密接で、日々の暮らしも同じくで、昨日までと今日の私も撚り糸のごとく絡まっている。どんな部分も私なのだから、ただそれだけで良い。と、芯からは思えていない私が文字を打つ。明日よ、少しでも朗らかであれと願ってシャワーを浴びに行く。

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