瑞々しく飛び出しては留まり
noteの下書きが、31本もたまっていた。
たった1行しか綴られていないものもあれば、700字程度埋まったものもある。似たようなことを書いてすでに記事にしたものも含まれているが、多分、全く同じではないはずだ。その瞬間の心の泡立ちは、そこにしかないはずだから。
何本か開いて、ざっと読んでみた。ひとつには、先日初めて対話させていただいた方のことが書いてあった。語られる物語に、痺れるような感銘を受けた。内容に多くの学びがあったことも確かなのだけれど、それ以上に、ひとの真ん中を貫くような強くてまっすぐな発信力に大きなエネルギーを感じたのだ。届けようとするものに、想いが全く負けていない。そして誰のことも傷つけない。素晴らしかった。こういう人に出会うと、私の全神経が相手の方に向く。なにもかも漏れなく吸収したいと本能で思う。そしてそういった時の気づきはきちんと血や肉になることを知っている。ありがたい機会だった。
ただ、このときは感受性のままに文字を起こすことができなかった。ほかにも山ほど情報をインプットした日で、整理がつかなかったのだ。興奮がほとばしるままnoteをひらいて、言葉を残し、そして私は諦めた。
もうひとつ開いた下書きがある。書かれていたのは、関わる女の子の独り言にふれて、私自身のかなしみが揺れたときのことだった。彼女の境遇や痛みを切なさを感じると同時に、私の中に見覚えのある感情だと思った。彼女の経験してきた過酷な状況を考えると「わかるよ」と口にすることは躊躇われるが、私たちは全然違う人間のようでいて、共鳴できる思いも抱えているのだと伝えたくなった。そういう文章だった。誰かと自分の内側をつなぐ点を見つけられると孤独は薄れていく気がする。その発見は私の胸をときめかせた。けれど、私と、女の子と、私たちのいろいろを想うと、この場で表現することがなんだか難しくなってしまった。そしてまた私は、諦めた。
「諦めたnote」たちは、もう記事として立ち上がることはないと思う。ほんとうに稀に、続きを書いてみたこともあるけれど、結局原型がないほどに触ってしまう。そうすると、触った時の気持ちの上塗りになる。別にそれでもいいのだけれど、心が動いた時に書き走ったいくつかに、私は自分の中の「ほんもの」を見つける。それを消したくないなと思った。二度と見つけられなくなるよりも、未熟で繊細なまま眠っておいてほしい。
心の針が振れたとき、飛び出すことばを文字にする習慣があってよかった。満月を明日に控えた夜に。
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