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憂、燦々

今日の17:30、近所を散歩した。
昼間の暑さを思い出して気後れしつつ、けれど家を出てみれば「せいぜい残暑の季節か」という感じで、夕方をてくてく楽しんだ。

ひとりで歩くとき、必ず音楽を聴いている。
はまるとその曲だけをひたすら繰り返してしまうのだけれど、昨日はaikoの『kisshug』のターンだった。時々流すアルバムの中の一曲、くらいの位置付けだったのに、手動でどこまでもリピートした。歌詞に感情移入する、というより、声の使い方に心のなにかが動いていた。歌は不思議。過去に何度も再生していたのに、あるとき急に今までと違う響き方をする瞬間がくる。

散歩のはじまりはそんな昨日を引きずっていた。
耳で何度も「隙間から見えた通り雨カゲロウ」とaikoが歌う。寄り道してお菓子を買ったら手が塞がり、リピートを押せなかった。18:00を回った頃、何十時間ぶりに流れた別の曲は、クリープハイプの『憂、燦々』だった。

秋の曲、私にとってこれは秋の曲だ。
3年前の、長袖を着て外を歩き始めた頃の、私の歌だと思い出した。さっきまであんなに「夏髪が頬を切」っていたというのに、出張の帰り、最寄りの駅でまぶたをひたひたにしたあの10月が戻ってくる。仕事で起こった猛烈な嵐、何ヶ月も続くトラブル対応に追われるうちに、私は燻んだ空気を振り解けなくなっていた。どこにいても、私を包むのはずっとグレーの色だった。状況は重く、負荷は大きく、けれどクライマーズ・ハイの私。妙な使命感でギラギラと業務に当たっていた。

連れて行ってあげるから 憂、燦々
離さないでいてくれるなら
何でも叶えてあげるから

たぶん、クリープならではの湿度の高い恋を歌ったものであって、情景はその時の私と重ならないはずだった。惰性の恋愛すら持っていなかったし。

けれど、自分の能力に天井を見て、等身大では到底対処できない現実を突きつけられて、それなのに私に感謝してくれる人もいて、助けてくれる人も見ていてくれる人もいて。
「限界間際」と「やりがいのきらめき」を行ったり来たりしているうちに、自分を捧げる気持ちと助けを渇望する気持ちがぐつぐつと無い混ぜになり、そうして辿り着いたのが『憂、燦々』だった。縋るほど苦しいようでいて、私にもまだできることがあると根から信じこんでいた。まつげは秋の風で冷えて、とっくに空は真っ暗で、「連れて行ってあげるから」と得体の知れない何かに言ってしまいそうな秋だった。切なくて、でも嬉しいことも必ず胸にあって、そういう憂、燦々の日々を、私全然嫌いじゃなかったなと思う。苦しかったことには間違いないのだけれど。


ドラマのような郷愁が湧き上がって、そして少しずつ温度を下げていったので、もう一回kisshugのループに戻した。その時に届く歌がある、残っていく想いがある。

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