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だいじょうぶ、をあげるよ

年末の足音がする。確実に聞こえてきている。もういくつ寝ると、と言うには少し早い。それでも間違いなく今年は終わろうとしている。

このままでは冷静に新年を迎えられない…と、昨年末の私は思っていた。末も末、残すところ2020年は片手指分の日数しかない、というときのこと。折り合いをつけてなんとか向き合っていたある事柄を、近しい人が土足で踏み抜いていくような出来事があった。忘れられない。ひとり布団の中で声を殺して泣いた。なんで私は、なんでこんなに絶望しなくちゃならないんだと本当に本当に嘆いた。文字として残っているものもあるけれど、読み返さなくたって、あの日の切迫した苦しさは蘇ってくる。

元には戻せなくとも、大抵のことは時がなだめてくれる。それを知っているのは大人の良いところだと思う。ひりひりしつつも、それでも2021年の始まりはちゃんと笑顔だった。この1年を私はどう生きるだろうか。ちょうど、新しい挑戦が立て続けにあったタイミングだったので、いい意味で先が見えていなかった。見えないからこそ自由に泳いでいこうと思えたのかもしれない。

年明けからここまで、「誰かに必要とされる」ことの意味がふっくらとしてきたように感じる。頼りになる、力になりたい、認められる、認めてほしい、居なければ困る、困らないけれど居てほしい、安心できる、安心したい。必要とする側もされる側も、少なからずそんな諸々を交換し合って一緒にいる。
私、すぐ人に「だいじょうぶだよ」と言ってしまう。これは本心で言っている。自分自身のことは「だいじょうぶ」だと全然思えないくせに、皆に伝える「だいじょうぶ」には誠心誠意を込めている。ヒーローでも何でもないけれど、私絶対味方だよ、だからだいじょうぶだよ。相手がどう受け止めてくれるかはわからない。無責任かもしれない。でも、ひとりくらい、いつでも本気で「だいじょうぶ」をくれる人がいてもいいじゃないと思っている。なぜなら私にもそんな人がいたから。「あなたの思うままに生きていいよ、それですべてだいじょうぶだよ」という想いをくれた、そしてどこにも行かないでいてくれた。(書きながら気がついたけれど、私この人を目指しているのだと思う)

支援の場のメンバーに、三が日の間に初詣に行こうねと誘ってもらった。私の名前を最初に挙げてくれたのは、いつも私のとなりに座る中学生だったらしい。胸がぎゅんと鳴る。私の手渡す「だいじょうぶ」が、この先彼女のお守りのひとつになってくれたらいいなと、烏滸がましくも願う冬。


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