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夏の夜の匂いに想うは

夏の夜を嗅いだ。22:30の空気。

ばたばたと仕事をして、先輩と少し愚痴って笑って、帰りにスーパーでパックのお寿司を買った。半分くらいの集中力でドラマを観ながら食べて、シャワーでさっさと1日分の汗を流した。金曜の夜、いまはひとり。

薄い顔をしたままワンピースを着て外に出た。あと数時間で今日は終わるけれど、私にはまだやることがある。対話。私と話をしたい少女の元へと向かう。

昼間の気温は36度だった。茹だるような熱、日が暮れたって気配は消えない。湿度を含んで膨らんだ空気が重くまとわりついてくるから、マスクを外して鼻から大きく吸った。

竹のような、藺草のような、植物の匂いがした。

不思議、ここはコンビニと小さな居酒屋が点々と並ぶアスファルトの道。風景にそぐわないこの匂いはどこからくるのだろう。嫌いじゃないなあと頭の片隅で勝手に思う。そうしてもう一度ゆっくり吸う。

忘れていたけれど、私は元々、夏の夜の匂いが好きな質だった。少し酔ったまま誰かと歩く帰り道や、ベランダで滲んだ月を見る時間。首元はじわりと汗ばむけれど不快さはない、そんな夜を吸っては「夏よ続け」と願っていた。当たり前に同じ季節が毎年巡ってくるけれど、鼻先を覆う白い布は2022を半分過ぎても必需品だった。
だから気がつかなかった。この町の夏の匂いは、きっといつもこんなふうだということに。

途端に恋しくなる。街頭の下でくしゃくしゃな顔で笑う人、駅のホームで買って飲むペットボトルの水、深夜に友だちとするコンビニまでの散歩。全部全部、私に染みついたいつかの夏のこと。どの場所でも藺草の匂いなんかしなかったけれど、脳は上手に結びつけて手繰ってくる。世界は感染症によって変わってしまった。だけどそもそも変わらないものなんてないんだ。そして、私が愛した日々が跡形もなく消えてしまうということもないんだ。呼び起こされる記憶に胸はじゅわっとする、ああ、夏よ続いてくれ。


駅をいくつか通り過ぎて、少女の住む町に降りる。ここの匂いは知らない、マスクも外さない。暗い高架下をなぞるように歩きながら、あの子がつける香水をふいに思い出す。こうして時々顔を見にいく関係は、来年の夏にも続いているだろうか。そうでなかったとしても、メンズライクな香りは脳裏にきっと、吸い込んだ空気と共に蘇る。私も少女も、前の夏を懐かしく笑っているといい。夏を嗅いだ。時刻はもうすぐ23時。

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