多湿の胸の裡と「ぬいぐるみとしゃべるひとはやさしい」

「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を読んだ。よみながら、あれ、これわたしじゃん、くるしい。と、なった人、どれだけたくさんいるだろうか。

「相手を傷つけてしまわないように」「ひとりぼっちだと思わせないように」「いらぬ気遣いをさせないように」と、私の思考はいつも巡っている。とても綺麗な作業に聞こえるけれど、要は相手の顔色を伺い、本当かわからないことまで読み取った気になって、自分を疲弊させながら生きている。やさしいというより、そうすることしかできないし、その「やさしさ」に見えるものも結局私都合なのだ。

子どもや地域とつながる活動は、もはや私のライフワークになっている。あらゆる属性を跨いでいろんな人たちと日々を一緒に過ごしている。人間の生き様は人の数だけあるのだと知った。染み込んだ価値観も、同じだけ存在する。交わる人の数が増えれば、その分葛藤も生じやすい。プラスにもマイナスにもなる。やさしさは、やさしさとして機能しているのだろうかと、自分へ何度も問うている。

「今ならなんでもできそう」な無敵感と、「私には所詮なんにもできない」の無力感とが、そんな日々の中で交互にやってくる。
守るものがあると強くなれる私は、誰かの存在によって自分を奮い立たせることができる。かと思えば、あと一歩の勇気が出せない瞬間を繰り返してし、落ち込む。守るとか言ったくせに、私、結局自分の方が大事なんじゃんか。強気なくせに傷つきやすい。跳ね返りが怖くて二の足を踏む。責任の矢印を全て自分に向けるのは、責任感が強いのではなく、自分勝手なだけなのだ。

と、下降気分の私が書く。

だけど、それでもわかっている。誰かと関わることは、言葉を伝えることは、なにか少しでも変化してほしいと願うことは、尊いことだ。地道なことだ。大変なことだ。それを怖がらずに頑張っている人たち、全員えらい。「人間関係頑張れていない」とうなだれる人も、もちろんえらい。大人も子どもも誰しもほんとうによくやっている。やさしさの意味を問うことは時に必要だ、エゴが勝らないように振り返るのも大切だ。けれど自分の不甲斐なさをわざわざ浮き彫りにさせようとしなくていい。ちがうかな?そう思っていてもいいよねきっと。

心の湿度も増す季節。
またきっと晴れやかになる。

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