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コラム:デジタルとアナログの争い

デジタルネイチャーという言葉があるが奇妙な言葉である。
デジタルに拒否感がある人達に啓蒙するためにそんな言い回しになったように思える。
なぜならこの世には自然しかない。
デジタルはネイチャーの一部であるはずだからだ。

アナログ機械しかない時代にデジタル機器が現れ、その時生まれた拒否感によってただの技術の区分であるアナログとデジタルが生理的な区分に変わり、その拒否感を解消するためにデジタルネイチャーという言葉が出てきたようにしか思えない。
デジタルがある時代に生まれてきた人達は、それを当たり前の事として認識しているはずだ。
自然とか人工とか分けるのと同じで、区分の領域を考え出すとなかなか難しい。
個人的に両者を分けることによって話がややこしくなりそうな気もするが、西洋的な法治によって成り立っている世界で、この区分を無いものとすると、所有権や著作権などの色んな問題に絡みだしてくるのでここでは語らない。


だが、アナログとデジタルをなんとなく分けてしまう感覚も分かる。(両者を対比するのはそもそもおかしいのだが。)
これは生まれた時代の影響なのだろうか。
機械に拒否感がある人にとっては、デジタルもアナログも関係なく嫌なものだ。
弓や剣で戦っていた時代から銃が登場し、ダイナマイトが登場し、戦車や戦闘機が登場し、核爆弾が登場した。
「後に出てくる者」は「前の者」に「ロマンがない」と言われるのだ。
戦国時代の武士同士の戦いに、ダイナマイトやアサルトライフルや戦闘機やライトセーバーが出て来て、それでパロディーじゃないと言われた時にどれくらい受け入れられるだろうか?
(小さな子供なら全て受け入れてくれるだろう。)
残り1発のリボルバー銃といつエネルギーがなくなるか分からないご都合主義のレーザー銃だとストーリーの描き方そのものに影響を与えてしまう。
手持ちに1万円札はあるのに10円玉がなくて公衆電話がかけられない状況と、いつ電池が切れるか分からないご都合主義の携帯電話もそうだ。
(しかし作家目線で言えば、レーザー銃や携帯電話の方がストーリーの可能性は広がる。)
ロマンがないとは今までの前提が崩される時に使われるのだ。


一般的にアナログとデジタルの論争があるのは芸術の世界だろうか。
デジタルペイントを最初に見た頃は確かに拒否感があった。だが、アナログペイントとデジタルペイントはもう個人的にも世の中的にも棲み分けが出来てしまった。両者の役割が違うのだと。同じ手描きでもデジタルでは描けるがアナログで描けない人とか、その逆もある。
出始めは「手描きの温もりがなんとか」とか言われていたが、棲み分けが出来るとブツブツ言いながらもだんだんと論争などしなくなる。
レコードプレーヤーとスマホで音楽を聴く人では、そもそも認識してる世界が違い過ぎるのだ。
(逆に認識が違いすぎるとお互い新鮮で歩み寄ったりし出す事が起きる。)
過去の既に出来上がったものに下手に手を加えて新しくするよりも、それはそれで置いといて全く新しい何かを作るのが棲み分けできるのがいい方法なのだと思う。
過去に強い影響を人々に与えたモノほど後からその印象を変えるのが難しくなるし、変えられないもどかしさにロマンを抱いてる。
この棲み分けせずに水戸黄門の新シリーズを考案してフルCGでX-Menのミュータントが登場するという設定にすると、王道の水戸黄門を知っている人から反感を買うのである。
(それはそれでぶっ飛びすぎて逆に見てみたいが。)

話は逸れるが長年音楽と関わってきて一つ面倒だなと思うのは、音楽制作においてほぼ全てがデジタルでシミュレーションされるようになったがどうしてもアナログ的な何かを切り離す事が出来ない事だ。
全て新しいデジタル的な何かにシフトする事が出来なかった。(これからする?)
これはグラフィックの世界でもある話なのかどうかは分からないが、音楽の世界ではデジタル導入初期から完全ジャストタイムの打ち込みのみの演奏は受け入れられなかったし、デジタルミキサーの音も嫌われた。
デジタルが導入されて完璧にそろった綺麗な音を聴いて「これは我々が求めていたものではない」と今度はせっせと音を汚し出す事を始めたのだ。
いかにリズムをずらし、いかにサウンドを汚すかを研究し始めた。
それでも時代が進み確実に均整のとれたサウンドが流行るのだが、汚さのエッセンスは必ず何処かにいれるような作りになっている。
DTMをした人ならばいかに音楽制作がアナログに呪われているかが分かるはずだ。
自分のサウンドがデジタル臭いと情緒不安定になり、砂漠で水を求める人のように真空管的な何かやテープコンプレッションが与えてくれる何かのオアシスを求めて徘徊し出すのだ。
現代の流行音楽家は「汚れていない音が嫌だ」と言う変態潔癖症にかかっているのだ。
音楽とデジタルの関係は最初の20年はデジタルの新しい道を模索したが、現在までの20年は「音楽的な汚い音」を求めたアナログのシミュレーションに多くのリソースを割いてしまったように思える。

話を戻すがアナログやデジタルを対比させて生まれた拒否感とは大概はこれらの新しいものを受け入れられるかどうかという事だ。
デジタル機器といっても情報の処理がデジタルになっただけで電源部や入力部はアナログだ。そもそも対立する概念ではない。
結局最後は時間がもっと流れれば、人は自然物か機械かとかそういう区分を忘れていくのである。
この先待ち構えている機械が「完全に自然物になる時」とは、「そこに何気なくある木が当たり前のように実を付ける」のと同じ役割をした時だ。
例えば美少女画像を永遠に吐き出し続けるWebサービスが一例だ。(酷い例だ。)
木とは、あなたが見ている画面(UI)そのものだ。実とは出力される「美少女画像」だ。
重要なことは実とは「素材」の事だ。AIはこの先確実に素材提供者になる方向にある。
それをどう加工して価値を付加するかが人間のする事だ。
画像はあくまで「情報」だけの存在だが、情報を元に3Dプリンティングされたり「物質の素材」が生み出されるようになる事が容易に想像できる。
そして人々がその木の中でサーバーなどの計算機が動いているという事を意識しなくなった時が完全に調和した時だ。
その頃には「そこに立っているリンゴの木が実は機械なんだ」と言われても誰も信じない。
現時点でこの世界で「木」と呼ばれているものは、実は超高度な文明人によって作られた「自律型機械」の最終形態かもしれない。
これは「生命」にも同じことが言える。
リンゴの木に絡まっている蛇も「機械」かもしれない。
生命が自発的に発生したのか作られたのか確かめようがない。
結局、機械とか自然と言ってもどちらも計算機であることに変わりない。
要するに、「自然」と呼ばれたものは自分で仕組みの分からない誰に作られたかも分からないブラックボックス化したものに名付けられた呼称に過ぎない。
スマートフォンやパソコンをデジタルのブラックボックスと呼べるが、
「デジタル」が見えなくなればそこには「ネイチャー」しか存在しなくなるのだ。


追記:
餅の絵を描いてそれが食品プリンターから出力されるようになったら、「絵に描いた餅」という言い回しは完全に通用しなくなるだろう。

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