愛するあの人が姿を消してしまって、未亡人のようになってしまったわたしは、、、、


男性と女性は別の存在。


ひとつの身体が

男性から女性へと

変化してゆくことは、

もはや、

生まれ変わるに

等しい。


ものなのだけれど、、、、、。




わたしは『ほかのトランスたち』の体験告白を山ほど読んでいるから、トランスジェンダーとしてのフォーマットを踏襲して、いかにもそれらしい文章を書くこともできる。



でもさ。これはあくまで、わたしのページなので。あくまでわたし自身が感じたことを、感じたままに書いてみたい。



ちょっとオカルト色が濃くなってしまうけど、どぅか気味悪がらずに読んでみてほしい。これから『(男女の)境界線を超える』トランスジェンダーの方々には、たいへん有益な情報にもなりうると、わたしとしては思っております。







現在、女性として生活しているわたしが、

男性だった時代を振り返ると、

どうしても、このように思える。



『(女性の)わたしはいつも、』

『胸の奥に眠っていて。』

『たまに目を覚ますと、』

『ちいさな小窓からこの世界を覗いていた』

(していることはそれだけだった)

そうして、

『現在のわたしとは明らかに別のだれかが』

『わたしに変わって人生を生きていた。』




─────そうです。

現在とは明らかに別の人物(※男性)が、

わたしの人生を運営していて。

〝彼〟からみれば、

わたしは胸の奥で眠る、

ちいさな女の子。



一生そこにいるはずだった

わたしは、

どうしたことか、

いまや、

直接、この世の生活に直面しなくては

ならなくなり。

いまでも、

そのことにたいへん戸惑っています。






性同一性障害の診断書を取るためには、担当の精神科医に対して、自分史を語る必要があるらしく。わたしにはそれはほとんど不可能なことに思える。



『わたし自身はいつもまどろんでいて』

『〝彼〟がわたしの変わりに』

『人生を生きてくれました!』

などと答えたら、

出てくるのは、

性同一性障害じゃなくて、

解離性同一性障害の診断書でしょうよ💦💦



トランスジェンダー(MTF)としての生き方のガイドラインが、ある程度定まるのは、良い事なのでしょう。

なので、

まずは精神科に行って性同一性障害の診断をもらいましょう!

というルールじたいは、

べつにまちがっていない。



でもさ、

明らかに例外の場合はどうすんのさ?

演技する??

ありもしない子ども時代をでっちあげて、

診断書だけもらえばいいのか??!?






いま、

ある程度落ち着いた状態になったからこそ、

初めて分かったことって、ある。


これからは

女性として生きると決めたことで、

いちばんひどい混乱状態に陥っていたのは

2020年10月の1ヶ月間なのだが。



この時期は、

いろいろな出来事が

あまりにも重なりすぎていて、

すぐには状況が飲み込めなかったのだが。



いまになってからならわかる。

ほんとうのほんとうは、

『なにに』苦しんでいたのかというと、

『女性として生きること』ではなく、

あろうことか、

『わたし(女性)の代わりに、男性として人生を切り盛りしてくれていた〝彼〟がいなくなってしまって、とつぜん何もかもひとりでやらなくてはならなくなった』こと。

なのです。



つまり、

男性だったわたしが女性を演じはじめた、

のではなく、

いっしょにいた男性が姿を消してしまい、

女性のわたしが

すべてをひとりきりで

こなさなくてはならなくなった。

そのことがたいへん苦しい。

ということなのです。




こういう見方をする人は、まったくいないわけではなく。多少古い情報ですが、競艇選手の安藤大将さん(FTM:女→男)は、女性時代の自分自身を『ありがとう千夏』という著書のタイトルどおり、別の人物のように扱っていますね。



ただ、

わたしの場合は、

(当時はそれが当たり前だったので自覚は薄かったものの)

男性時代から、

『男と女は別の人物として』

双方同時に存在しており、

当時の『わたし自身』(男性)から見た、

いまのわたし(女性)は、

ほんとうに

『胸の奥に眠る、ちいさな女の子』

という感じでした。


すごく大事にしてくれたし、

可愛がってくれたし、

まぁ箱入り娘だ。笑




だから、

多少誇張した言い方をすると、

男性時代のわたし(もちろん男性)が

いつも思い浮かべていた

『想像上の理想の女性』

が、なぜか、

いまや実在の人物として、

いま、この身体で生きている、

という感じなのです。



とはいえ、

〝彼〟(=男性時代のわたし)は

もう死んでしまったので、

いま、わたしは、ひとりです。




この感覚は、じつに新鮮。



男性時代のわたし(もちろん男性)は、

『胸の奥にいるちいさな女の子』のことを

いつも気にかけていたので、

ある意味、

『いつもふたりで』

生きていた。



それに対して、

いまのわたし(女性)は、

ひとりきりで

生きている。

〝彼〟はどこかへ行ってしまった────。



かくして、

『ひとつの身体にひとつの人格』

という、人間としての基本状態が、

わたしにとっては、

生まれて初めて成立したわけです。




こんなの、性同一性障害にかこつけた妄想話に聞こえるかもしれない。

でもね、

わたしにとってはこれが真実なのであり、

じっさい、

『男だったわたしが、頑張って女になった』

という場合とは、

まったく別の種類の体験を、

たくさんしています。



なかでも、

もっとも偉大だったのは、

(女性としての)わたしは、

『女として愛された』記憶を

すでに持っている。

ということですね。

もちろん、愛してくれたのは〝彼〟です。



客観的に見れば、

ひとりの人間(わたし)のなかでの

自作自演にすぎないのでしょうけど。



それにしたって、

『愛されていた記憶』の

威力はすごすぎて。


(女としての)わたしは非モテで悩んだことはないし、じっさい、ちょっとおかしいくらいにモテます。(もちろん男性から)


それでいて気分はすでに未亡人なので、

付き合ってくれる男性を探す気は、

まったくないのです。



だいいち、、、、。

〝彼〟とは同じ身体を共有していたんだから

これ以上わかりあえる男なんて、

この世にいるわけないでしょう!?

〝彼〟よりもいいオトコでないと、

恋愛対象になんて、なりません!!!



いまや女性の姿になったわたしが、

男性時代の自分自身について

正直に語ろうとすると、どうしても、

『愛する〝彼〟との共同生活』

とでもいうような趣になります。



ひとつの身体を

『ふたりで共有する』とは、

何とも奇妙な体験ですが。

いまの(女性の)わたしからは、

そのようにしか、語れません。



すでにいなくなってしまった、

わたしとは明らかに別の人物のことを、

わざわざ悪く語ることは、

わたしにはできない。



じっさい、男性時代のわたしは、

『ほんとうは女の子なのにムリヤリ男性を演じさせられる、苦悩』というものを、

ほとんど体験していないのです。

(※ほとんど、といってもゼロではないので、それについても機会があれば語ります)



じゃあ男性時代の(男としての)わたしは、

男性としての人生を謳歌していたかというと

そんなことは無いし、

生きることは苦痛だったし、

いつも生き急いでいた。

この世にいる目的だけを果たして、

『男でないと絶対に出来ないこと』だけを

やり遂げて。


それはつまり実家の宗教団体と縁を切る、ということですね。彼らとは一切関係なく生きられるようにと、(女の)わたしでもできるような仕事を見つけてくれて。実際にその職に就いて。彼ら(実家、教団)に知られることなく転居して、ついに(女の)わたしが『ひとりでも生きていける』境遇を創り終えると、彼は姿を消しました。



つまり、

(女としての)わたしが、

ひとりでも生きていけるように、

カンペキに準備を整えると、

〝彼〟はこの世から消えていったのです。



いまのわたし(女性)がいるのは、

100%〝彼〟のおかげであるし、

わたし(女性としての自分)にとって、

〝彼〟(男性時代の自分)は、

生みの親であり偉人であり

尊敬する人物です💕💕💕

生涯、感謝しております✨✨✨





こんなふうに、愛されてここまで生きてきたのだと思い知らされると、自殺なんか企図するのは申し訳なく思える。かといって理念だけでは自殺願望からは脱却できないのも事実なのですが、、、、。

とはいえ、セクシャルマイノリティーであること、トランスジェンダーであることによるひどい孤独感に苛まれなくて済むのは、明らかに〝彼〟のおかげ。わたしは自分自身をトランスジェンダーというより未亡人だと思っているのです。

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