人生初の「手づくりモンブラン」
わたしの両親は栗が大好きでした。
秋になると、毎日のように茹で栗の皮が食卓に転がっている、そんな光景を幼いころからみつづけていました。
なんの変哲もない、ただの茹で栗。みためは地味で、食べるのがめんどくさい、ただの茹で栗。飽きるほど食べていたから、いつしか子どもだったわたしは、それを「嫌い」という記憶に置き換えていました。
大人になって自分でスイーツを買えるようになったころ、手が伸びるのはいつも焼きっぱなしの「焼き菓子」で、生クリームをたっぷりデコレーションしたようなケーキをオーダーするのは稀。「嫌い」と思いこんでいた栗が主役の「モンブラン」には、見向きもしない月日をしばらく過ごしていました。
あるとき、雑誌でみたモンブラン特集に引き込まれ、なかでも『サロンド・テ アンジェリーナ』のモンブランをどうしても食べてみたくなり、今はなき『プランタン銀座』に構えるそこへ、出向いたのです。
「栗=嫌い」の代名詞を長らく掲げていたわたしは、そうこころのなかでつぶやいていました。でも、ここで「栗おいしい」といってしまうと、これまで「嫌い」でとおしてきたある種の”信念”が崩れてしまう。
それに、「栗おいしいのに」とからかう母と、「えーいいよ(いらない)」というわたしとの一連のやりとりがおもしろかったのも、栗嫌いを長年装うひとつの理由でもありました。
変な”信念”を引きずったまま、歳を重ねて今に。
この数ヶ月、noteの更新がゆっくりになった分、Instagramの投稿やフォロー/フォロワーさんとのコミュニケーションを密にしています。
コメントをしたりされたりする、ご近所の犬友さんとのやりとりで「栗のスイーツが食べたいな」というメッセージをみたある日、ハッとしたんです。スイーツづくりが好きで生きてきた(いる)のに、栗をつかったレシピに挑戦したこと、一度もなかったなと。
なんだか急に損をしていた気がして、スーパーへ寄ったつぎの日、人生ではじめて栗をカゴのなかにいれました。
noter仲間のミーミーさんが、「炊飯器でお芋が蒸せる」とInstagramに投稿していたのを思い出し、栗も似たようなものだからいけるのではないかと、(ごはんを一切炊かない)うちで冬眠中だった炊飯器を奥のほうからガサゴソ。
やってみたら、スイッチひとつで簡単に蒸し煮ができました。
子ども時代の記憶の栗とは違って、そのまま食べてもほっこりおいしい。数年、いや数十年ものあいだ、この事実から目を背けていたのかと思うと…。
モンブランを自分でつくる、なんて一度だって想像もしたことがなかったのに、犬友さんのひと声で「やってみよう」になりました。
栗の皮がめんどうだけど(ホントそれがやっかい)、ペーストはなかなかの味に。
別のレシピ(noteで近々紹介)でつくっていたチョコレートケーキを底にして、水きりした豆乳グルトをON。栗のペーストを絞り袋で出してそれっぽく。
わたし流のモンブランができました。
人生初の手づくりモンブラン。感慨深いものがありました。
栗好きの両親に食べてもらいたかったな。