仕事は時短で子育てに専念しようと思っていた私が、社長になったワケ(前編)
今回から始まる株式会社くればぁ・石橋衣理社長のnote。初回は社長就任の背景を聞いてみようと思います。
記事の前編では、10代、20代の多感な時代を振り返ってもらいました。
――まずは、子どもの頃の話から教えてください。
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私は5人兄弟の末っ子で、特に父(くればぁ・中河原四郎会長)からは溺愛されて育ちました。それは自他ともに認めます(笑)
女の子だからすごく守られていて、小学校、中学校の門限はかなり厳しかったです。誘拐されるんじゃないかと心配されていたようです。
高校選びは一番近いところにということで、家の目の前の高校に入学しました。部活で夜7時を過ぎると「どこにおる?」って電話がかかってきて。いやいや、目の前だぞって(笑)
溺愛されてはいたのですが、父はとても厳しい人だったので、怖かったんですよね。
門限破ればめちゃくちゃ怒られるし。上にいる兄姉4人が怒られている姿を見て、私は怒られないようにしようと思っていました。怒られないように言うこと聞くので、父からしたら余計に可愛いんですね。
――かなりの箱入り娘で育てられたんですね。大学は自分で決めたのですか?
いえ、大学も一番近くてスムーズに入れるところがいいということで、地元の短大に行きました。なので、高校も大学も受験勉強の苦労は特にしていないんです。
ネイルの仕事をやってみたい、専門学校行ってみたいと思うことはありましたが、父からは「そんなんでは食っていけんぞ」と言われ、おとなしく言うことを聞いていました。
――卒業後はくればぁに就職ですか?就職活動はされたのでしょうか?
新卒では地元の会社に入社しました。就職活動も人並みにやっていたのですが、父が知人の会社に入れるという話を持ってきて、他社の選考よりも一番内定が早かったので、その会社に入りました。コネ入社ですね(笑)
たぶん、父としては、地元の人しかいない会社だから、適齢期になったら社内結婚して、自分の近くに住んでいられるなと、そんなことを見越していたんでしょうね。
かわいくてたまらない末っ子なので、子どもの頃からずっと、そんな思いで私を育ててくれたんじゃないかなと思います。
――そうなると、20年間ずっと親の期待通りに生きてきたんですね。そこからどうやって、今の社長という状況になるのか、まったく想像がつきません。新社会人生活はどうだったのですか?
会社に入ってすぐ、気づいたことがあったんです。
同じ事務職の仕事をしていても、短大卒と四大卒ではお給料が全然違うんだと。むしろ、私は商業科を出ていたので、経理の仕事は私の方が難しいことをしていました。
「なんだ、この理不尽さは?」と、悶々とした社会人生活のスタートでした。
その積み重ねで、2年ぐらいで気持ちの限界が来たんです。
この仕組みではいくら頑張っても四大卒の同年代を超えることはないし、短大卒で上に行ける天井も見えていました。
女性社員は結婚して辞めるのが普通で、頑張って仕事を続けても、会社の中ではお局さんとして、どこかお荷物みたいな扱いをされてしまう……そんな未来が見えてしまいました。
会社に行きたくないって気持ちを引きずりながら何とか出社するような悶々とした日々を過ごしていましたが、3年目になった時に父が体調を崩したんです。
「うちの会社を手伝ってくれないか」と言われ、渡りに船という感じで、くればぁに転職しました。
――社会人スタートから辛い日々でしたね。悶々と考えてはいたけれど、自ら転職しようということは考えていなかったのですか?
自分でアクションするなら次はこうしたいっていうのは、ぼんやりといくつかはありました。
短大卒と四大卒では給料が違うことを高校生の当時に知っていたら、私でも行ける四大はあったんじゃないかっていう後悔があって。
私がもし高校の先生になったら、卒業後の社会のことや仕事のことを、今の高校生に教えてあげられるんじゃないか。そしたら、その後の将来が広がる生徒もいるんじゃないかと考えていました。
会社の仕事に限界を感じていた社会人2年目の頃、高校時代の先生に会って相談したんです。「今から高校の教員免許って取れますか?」って聞きました。
働きながらでも、通信の大学に行けば高校の教員免許が取れると教えられ、「衣理なら取れるんじゃないか」と言われました。
――高校の先生を考えていたんですね。それは実行に移すのでしょうか?
くればぁに入って、父の体調が全回復したときに、教員免許を取るために通信の大学に願書を出しました。特に両親にも相談せずに。私の中で自分だけで考えて行動したのは、それが人生で初めてでした。
初めて自分で行動した時に、「あ、自分で行動できるんだ」ってことに気づけたんです。
親が敷いてくれたレールを生きてきて、特別に失敗はなかったです。
でも、何か自分で行動してみたら違うワクワクがあるし、自分の親が知らない世界を私は見つけることができるんだなって感じました。
そこで、私はやっぱり学びたいっていう思いが強いことに気づきました。
――お父さんからの反対とか条件とかはなかったのですか?
それが、特になかったんですよね。
「そうか、今から勉強するのか。先生になるのか」って、少し驚いたような反応はありましたが、反対されたわけではなかったですね。
昔はレールを敷かれていると思っていましたが、転ばぬ先の杖としてルートを示してくれていたのかもしれませんね。無駄に苦労をさせる必要はないという親心だったのでしょう。
――学び直しの大学生活は得るものが大きかったですか?
とても視野が広がりました。定期的なスクーリングのときには大学のある東京に行って、そこではいろんな背景の人たちと一緒に学ぶんです。
結婚して家庭がありながらも学び直していたり、企業のトップの営業成績で表彰されるような人もいたり、大学で出会う人たちは、今まで地元で出会ってきた人とは違う考え方を持っていました。
何より、自ら学び直しに来ている人たちなので、みんなすごく前向きなんですよね。
気に入らないことがあれば、それをグチグチ言うんじゃなくて、じゃあどうやったら解決できるのかとか、どうやったらそれをプラスに持っていけるのかっていうのを考える人たちの集まりという感じ。
共感できるし私自身がとても好きな考え方でした。
フルタイムで働きつつ、夜や週末は大学の勉強というのはめちゃくちゃ忙しかったですが、とても楽しかったですね。スクーリングが楽しみで、授業の後には必ず飲みに行って、遅くまで語り合うという生活でした。
それまでの単調な人生から考えると、一番充実感がありました。学びも仕事も恋愛も趣味も、たぶん全部充実していたんじゃないかな。
20代半ばにしての青春。かけがえのない時間を共有した仲間なので、今でも連絡を取り合っています。
――大学卒業後は、そのまま教員を目指したのですか?
卒業直前までは教員を目指していました。ただ、母校に教育実習に行った時に、「違うかも……」と感じたんです。
実習内容はガチガチに固められていて、社会に出て感じたことを話そうにも、悪影響があるかもしれないから言っちゃいけないことも多くて。教育実習は結構がんじがらめだったんです。
もともと、私が高校生のときに社会のことをいろいろ教えてもらいたかったと思って教員を目指していたのに、いざ高校生の前に立つと、私が教えてほしかったことを教えるのは難しいという現実がありました。
社会人を経験してから教員になるからこそ価値があると思っていたのですが…… 「ああ、私がやりたいのは教員ではないんだ」と諦めてしまいました。
――他にやりたいことや次のキャリアを考えたりはしたのでしょうか?
その頃はくればぁでの営業の仕事が楽しくなってきたのと、結婚する話があったので、すぐに次のキャリアというのは考えていませんでした。
母校から非常勤講師のお話をもらって、すごくいい話かなとは思ったんですが、会社の仕事より天秤が傾くことはなくてお断りしました。
その時は27歳。人生の岐路でしたね。
教員を目指すという、それまでの人生で初めて自分で作った選択肢を手放すことにはなりましたが、その経験自体は無駄ではないと思っています。
転職や大学進学で外に出てみたら、「いろんな可能性があるんだ!自分が望めば何とでもできるんだ!」って、気づけたことは何よりの収穫です。
――その後はくればぁで仕事を続けて、そのまま社長を継ぐことになるのでしょうか?
いえ。その翌年、28歳で会社を辞めることになるんです。
結婚した旦那さんの海外赴任について行くことになりました。数ヶ月オーストラリアに短期留学してから、赴任先のタイで3年半くらい海外暮らしをしていました。
――4年近くも海外で暮らしていたんですね!?今につながる経験も多かったんですか?
仕事をしながらの子育てや女性の社会的自立は当たり前の社会でした。日本とは違う社会の価値観に触れられたことは、私の人生にとっても大きいですね。
むしろタイでは女性の方がガツガツ働くんです。子どもがそういうお母さんを見て育つから、お母さんに憧れる。だからニューハーフが多いって聞きました。
それに、外食文化ですし、シッターの仕事も一般的なので、結婚したら女性は家に入るという考え方があまりないんです。
最近は日本でも家事育児をする父親は増えてきていますが、社会のあり方とか文化の面で、日本と海外では女性が仕事を続けることのハードルが違うんですね。
――なるほど。今回の記事は「社長になったワケ」がテーマなので、海外生活で感じたことはまた別の機会に聞きたいと思います。このあたりで後編にいきましょう。
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