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『不登校少女と三人の美魔女』第一話 太った少女とスクールカースト


あらすじ

 
中学二年生の宮脇ララはクオーター特有の濃く整った顔立ちをしている。美少女になる素質はあるものの野暮ったい髪や眉を持ち太っていることで、今はまだ外見が良くない。ふとしたきっかけで、スクールカーストのトップの女王サイコに「実は美少女」であることを気づかれる。親の赴任先の欧米で容姿差別されたことのある彼女はララの欧米風の美貌にトラウマを刺激され、衝動的に人前で笑いものにする。
傷つき不登校になったララを見かねて「これを何とかしなければ!」 と元モデルの叔母・サリーンが立ち上がり、中学時代からの女友達でライター・藤子と、教師の聡美を招集し、ララを垢ぬけた美少女にプロデュースすることに…。

あらすじ


プロローグ



「宮脇さん、ほんとごめんね。悪口を書いた紙を回すだなんて。ただの冗談だとは思うけど、嫌な感じだよね。みんなさ、宮脇さんがハーフ系の美人だからウラヤマシくて、ちょっと嫉妬しちゃったんだと思う」

宮脇さん、と呼ばれた宮脇ララは、うつむいて目を伏せたまま、膝に上で拳をギュッと握りしめた。

アルメニア系レバノン人と日本人のハーフである父の血を色濃く受け継いでいる彼女は基本的に中東系の顔立ちをしているが、やはりハーフの母親から受け継いだロシア系の血も流れており、角度によっては白人に近い容姿に見えることがある。

 だが、その際立った美貌は、増えすぎた肉に埋もれてしまっている。太りやすい体質というわけではないが、強いストレスを感じると、甘いものを一気食いするクセがある。結果、太めの体型と自信のなさが、周りからのイジメに繋がっているのだ。

 特に、今声をかけてきた吉田彩良(さいら)、通称「サイコ」の言葉は、実際の音量以上に大きく、二年一組のクラス中に響き渡る。一見、正義漢のようにも見える台詞だが、「サイコ」の言葉こそが、ララを一番に苦しめている。受け取りようによっては、ただの「良い人」にも思われる……そんな「褒め殺し」は、嘲笑を誘うニュアンスを含んでいた。

「宮脇さんは叔母さんが有名な元モデルさんだし、ハーフとかクオーターってカッコイイと思われているんだよ。でもよくないよね。もうやめなって私からも言っておくから、今回だけは、許してね」

黒目がちな目をクリクリさせて、「サイコ」はいかにも、

「まだまだ無邪気で子供のような十四歳」

の顔を作り、そのくせ容赦の無いスピードでララから紙を取り上げ、素早くちぎってみせた。その紙には、ララへの誹謗中傷がいくつも羅列してあった。



事の発端は、教師が不在のランチ時間。

クラスの「一軍女子」が、地味なグループの数人を生贄としてピックアップし、その人物の動向を注視し、一挙手一投足をメモして笑い飛ばすという遊びを楽しんでいた。

どうせ、ネット上やグループラインでも同じことをやられているのだろうが、オンラインはこちらの耳に入らないだけまだマシだ。基本的にスマホ厳禁の教室内では、昔ながらの「ささやき声」と「手紙の回し読み」が好まれる。

今回のゲームではララは捕食される側、彼らの観察対象の一人だった。太っていて無愛想で暗い。一軍グループの女に好かれない条件は、整っていた。

一二時四八分 歯科矯正中の香川茜は、食事しながら笑って口から茶色い何かを出した。あれが体につくと皮膚が溶けるという噂も
一二時五〇分、大谷梨沙は、右の歯ばかりで噛むので、顔が歪んで気持ちが悪い
一二時五三分、宮脇ララは、私たちに観察されているのに気がついているから、いちいち動きがぎこちない。自意識過剰。子指まで立てて。「私が美人だから見ているんだわ」って思ってるんじゃない。ウザ。
 
そんな事を書いた紙を気まぐれに回し、絵や文言を追記しては、爆笑する。
 基本的には、女子同士の遊びだが、お調子者の男子・大竹がふざけて紙を奪い、広げて読んでから、大げさに驚いたふりをする。そして、クシャクシャに丸めた紙をララのほうに放り投げた。

それが、ララの鳥の巣のようなもじゃもじゃ頭に刺さるようにハマる。予想外のハプニングに、テンションが上がった数人が体を折り曲げて大爆笑した。

そんな中、一軍グループの中でも知性派として知られ、一部男子からは影で「インテリヤクザ」と呼ばれているサイコだけは、騒ぎに加わらず、煩わしそうに顔をしかめた。

 同情したからではない。やりかたが、洗練されていなかったからだ。
悪役が誰か一目瞭然の、あからさまないじめなんて、小学生か。くだらないし、面倒が起こりそうだし、すぐアシがつく。目先の快楽しか考えられないバカどもが。

この時点では、サイコが苛ついている対象は、ララではなく「いじめている側」だった。

「やめなよ。それじゃ、いじめだよ」

と、サイコは、調子に乗りすぎた女友達に、ゆったりとした口調で釘を刺す。顔もよければ成績もいい、コミュニケーション能力も家柄も問題ナシの女王蜂(クイーンビー)は、「いじめ」のような野蛮なことはお好きではない。

どちらかというと、ネット上で行われるような、物理的に危害を加えず、ジワジワと相手の劣等感を刺激して、精神的に追い詰めるような心理戦のほうが、好みにあう。まったく、下々の者は分かっていない。そっちの方が、より上質な「優越感汁」が出るというのに。

サイコは彼らより自分のほうが善人とは思わないが、かといって、ララを積極的にいじめたいわけでもなかった。少なくとも、今、そんな衝動はない。
当初、サイコは、黙って耐えているララの味方と言ってもいいくらいの気分だった。

ララは、太く短い指で、紙をユックリ広げて、中の文字を読んで青ざめた。するとさすがに、爆笑していた面々も苦笑いになって、お互い気まずそうに顔を見合わせる。

職員室にでも飛び込まれたら、それなりにおおごとになるからだ。

「ちょ……サイコ助けて」

取り巻き女子に助けを求められた女王サイコは、

「しょうがないね」

と腰をあげ、大儀そうに、ララのところまで歩いてきた……。



千葉県千葉市美浜区に位置する聖風学園は、小中高エスカレーター式の私立で、都内のミッション系の大学と緊密な関係を持つプロテスタントの学校だ。

サイコは、両親ともに敬虔なクリスチャンで、本人も日曜日には教会に通い、ボランティア活動もしている。学校にとっては、模範的な優等生だ。
だが、今のとこと彼女の真面目な信仰心は、思春期の怠惰な日常とはまったく別の箱に収められている。

誹謗中傷が書かれた紙は被ったし、証拠隠滅したからもういいだろう、と席に戻ろうとしたサイコだが、自分をまっすぐに見つめ返してくるララの潤んだ瞳があまりにも大きく、半開きの口から覗く歯が、真珠のように輝いていることに目をみはる。

「……!」

 肉に埋もれた彫りの深い容貌の迫力と、ゾクッとするような色気に、思わず背筋が痺れた。

 突如としてサイコの脳裏に、幼少期に欧州の幼稚園で、差別された記憶がフラッシュバックする。親の海外赴任で住んでいたドイツで、顔が平たいので醜く、歯が黄色いから臭い、とからかわれた苦い経験だ。

日本では「かわいい」と言われがちな、博多人形風の骨や肉に守られ、すっかり癒やえたように思っていた「醜形恐怖症」の核を、柔らかいなにかが刺激した。

「私はもう笑われる側じゃない。ここでは笑う側の人間だ」

煮えたぎるような残酷な衝動が、薄い胸を突き上げる。サイコは、

「こんな嫌な紙はちぎっちゃった。あたしがカタキをとってあげたよ、宮脇さん! まぁでも、人よりちょっと美人だと、お互い大変だよね、嫉妬が」

 と言って、ポンとララの肩を叩く。

褒めごろしは確かに、紙を丸めて投げつけるよりは、多少洗練されたやり口だ。ララは無言で、口の片端を上げて薄く微笑む。いじめられているのではなく「いじられて」いるだけ、とポーズをとってプライドを保つと同時に、零れそうな涙をホールドしたのだ。

「あ、あ、ありがとう」

ララがそう答えると、男子が吐くフリをして「また、ドもってる」「てか、本気にしてるのかよ」という嘲笑がどこかから響く。

 ララは、日常会話にはさほど支障がないものの、課題の発表など緊張感のある場面で、「あっ、あっ、あの、えぇと、こ……これから発表を……あっあの、はじめます」など、「繋ぎ表現」を多用する傾向がある。それも、いじめを悪化させている原因の一つだ。

ララは込み上げてきた涙を無理やり鼻で止めたことによってジワリと湧き広がった甘苦いナニカに酔いながら、天井を睨む。

サイコと一軍女子……こいつらの顔は、目がギラギラして、酔っぱらいか薬中にそっくりだ。

最近、薬物中毒をテーマにした海外ドラマにハマっているララは、そんなことを考える。

いじめている奴も、いじめられている奴も、半ば正気ではなく、合法的ななにかに酔っている。双方の脳内に湧くソレは似て非なる物質なのか。加虐で得られるのはアッパー・刺激系の快楽で、被虐の涙に伴うのは、ダウナー・鎮静系の薬物に近いなにかのように思えた。

被虐の快感は涙が湧き上がる瞬間だけ効いて、その後は不快感に包まれるが、加虐の快感は底なしだ。こうなるともう、精神的な逃げ場はない。席を立って、物理的な逃げ場を探すかどうかだ。

今日のお昼には、教室に先生がいないことが分かっていたのだから、トイレの個室に弁当を持ち込み、便所飯でもすればよかった。と、ララは後悔する。

「便所飯」というのは、いったいいつ頃からある言葉なのだろう。やはり中学時代は「身分が低かった」と自称する元モデルの叔母は「便所飯」をしたことはあるだろうか。

ララは、家にも学校にも「居場所がない」と感じているなかで、唯一の心の拠り所である叔母・宮脇サリーンの顔を思い浮かべる。
誰だって、好き好んで便所で飯を食べたいわけじゃない。不衛生だし、排泄物の匂いなんて、吐き気がして当たり前だ。では、何故、生徒たちは便所の個室で食事をするのか。

簡単なことだ。教室のほうがよっぽど毒性が強く、臭い自意識に満ちているからだ。
 

ネット世代の性悪女子


 
「あなたの発言がきっかけで、宮脇ララさんが傷付いた。だとしたら、あなたがしたことは、いじめではないの?」

 聖風学園の非常勤講師・小野田聡美が「十四歳の少女の良心に響くように」と苦心して、穏やかな口調でそう問いかけると、

「美人と思った相手に、〝あなたは美人だ〟ということが、いじめでしょうか?」

 サイコは、幼女のように目を潤ませ、聡美を見つめ返してきた。

 宮脇ララの叔母である元モデル・宮脇サリーンの友人でもある聡美は、本音を言えば、机を蹴り倒して怒鳴り散らしたいほどサイコに腹をたてていた。

 とはいえ、友人の姪である特定の生徒への思い入れを表に出すことは、許されない。

 さらに、聡美自身も十歳から十五歳頃までは、大人に対して「まだピュアな子供」というキャラクターを全面に押し出して要領よく「営業してきた」人間だ。

 そんな自分の子供時代と重なるからか、力技で教師という登場人物を「無垢な子供を誤解する汚れた大人」という形に落とし込もうとする心理も、理解できないことはない。

 分かっているからこそ、「このメギツネが」そう吐き捨てたい気持ちがわきあがる。

「あなたがララさんを美人と言ったことで、クラスの男子が笑い、大竹君が吐く真似をした。このことはどう思いますか?」

「クラスメイトとして、クリスチャンとしても、恥すべきことだと思いますが」

 両親ともに敬虔なクリスチャンで、日曜日には教会に通い、ボランティア活動もしているというサイコは、細い顎の下で両手を祈りの形に重ねるという「可憐な仕草」に乗せて、イケシャアシャアと言ってのけた。

 聡美は同中学の非常勤講師なので担任は持たないが、ララやサイコが所属する、「総合文化部 英会話クラブ」の顧問をしている。

 学校が「特別な事情がない限り全員部活参加」を義務付けている関係で、英会話クラブをはじめとするゆるい文化部は、帰宅部希望者の隠れ蓑として賑わっていた。

 部活のメンバーに起こった事件は他人事ではなく、「ララが友人の姪である」という事情は抜きにしても、「ララのいじめ騒動」の聞き込みをする運びとなった。

「あなたがそう誘導したとは思わない? つまり、宮脇さんは、あなたより目立たないおとなしいグループの一員なのに、クラスの人気者のあなたが大声で大げさに容姿を褒めそやした……」

 そこで聡美は、ララの屈辱を追体験した気になり、絶望的なため息を漏らす。

「……だから、笑われるはめになったとは? もしかしたらあなたは無意識だったのかもしれない。けれど結果的には、笑いものにするように仕向けることになったとは?」

 スマートフォンアプリで録音でもされていたら、裁判で負けそうなギリギリの誘導尋問だ。

 そんな危険を犯しても、サイコのスイッチを「戦闘モード」から、「本音トークモード」に切り替えたかった。

 まだ生理が始まるかどうかの少女たちは、聡美たち中年に負けないくらい、ホルモンバランスが不安定だ。ささいなきっかけで脳内物質の調和が乱れ、「性悪」と「いい子」が目まぐるしく切り替わる。

 胸の奥に押し込まれがちな「ホンネ」や「良心」を引き出すべく、単刀直入な言葉で、サイコの心のデリケートゾーンに手を伸ばす。

 教師としてはいささかデリカシーのない物言いだとは思うが、「無意識だった」という逃げ場を作ることが、こちらとしてはギリギリの「折衝案」だ。

「先生は、宮脇ララさんの容姿ってどう思われますか。正直、私の審美眼では美人だと思います。

 サイコは、シレッとした顔で、「質問に質問で返す」姑息なテクを駆使する。

「黄金比と白銀比という言葉がありますよね。彼女の目鼻立ちは非常に黄金比に近く、骨格も彫刻のようです。体形に関しては、いくらでも変わるものですが、骨格はそう変わるものではありません」

 そういって、自分の手首の骨をサラリと撫でるサイコ。

 黄金比は主に欧米で好まれる美しさとされ、白銀比はアジア人が好む美しさとしても知られている。サイコ自身は、白銀比寄りの美少女だ。

「日本の中学生は、どちらかというと白銀比に近い顔を好むかもしれません。でも彼女は、モデルのおばさまに瓜二つだとも伺いました。客観的に、美人です」

 思わず聞きいってしまいそうな詭弁を並べ立て、議論の本質からヌルリと身をかわす。

「だから私は申し上げました。宮脇さんがハーフで美人だから、みんなが絡みたくて、失礼なからかいかたをしたのではないか。寛容な心で許してあげるのはどうだろう。と」

 そこでサイコは、癪にさわるため息を挟む。

「それについて、みんなをかばいすぎて、よくないとおっしゃるなら謝ります。でも、宮脇さんを純粋に美人と思っていることを否定されるのは、どうでしょう? 先生の主観でしょうか? だとしたら、宮脇さんに失礼なのは、私でしょうか?」

「……このクソガキが」

聡美は心のなかで毒づいた。

 こちら側が、手を替え品を替え懐柔しようとしたからか、サイコは「無垢な幼い少女」の人格を一旦脇に置き、ネット上に跳梁跋扈する「論破王」的な人格を召喚してきた。

 聡美は、サイコを十代の頃の自分と同じタイプと思っていたが、親の転勤で幼少期から、治安の悪いアジア諸国や、子供の間では未だ人種差別が横行するという欧米の田舎を渡り歩いてきたサイコは、ディベートが強い。
 さらに、「マスクをした少女YouTuber」として活動しているという噂のある彼女は、インターネットでの「レスバトル」を見慣れているせいか、言葉の使い方が巧みだ。

 この少女は、昔の聡美より、さらに小賢しく仕上がっている。

 俗にクソリプと呼ばれる煽りを思い起こさせる「論点ずらし」がお上手だが、畳み掛けるような口調と揺れる視線が、教師との論争に高揚し、気を張っていることを告げている。

「分かっているんでしょ、こっちはそういうことを言ってるんじゃないんだよ」聡美は、目を伏せて、心の中で毒を吐く。
 
 【内心はあの太った子を馬鹿にしているくせに。褒め殺しをしながら、馬鹿な男を操って嘲笑させて傷つけたんでしょう。それにはどんな理由があるのかい? て聞いているんだよ。欲求不満でも溜まってるの? 
 「よく見ると自分より美人だけど、暗いからブス扱いされている級友」に向かって〝今のあんたの立ち位置はここだから〟と、自分の優位性を叩きつける言動は、気持ちよかったかい? 一瞬は、マウントがとれて快楽物質が出るだろうけど、サイコパスでもなきゃ、人を見下す快感は麻薬くらい脳を壊すし、害でしか無いよ。大人になる頃には無意識レベルで自分も人も信用できなくなって、自分が作ったディストピアで謎の不安に苦しむことになるよ】
 
 聡美の頭の中で、およそ教師らしくない罵詈雑言が駆け巡る。口に出してはいないが、形勢不利だ。録音されていたら即父兄に怒鳴り込まれるような、ろくでもない反論しか浮かばない。

 大学時代に心理学を学んだ聡美だが、基本的に心理カウンセラーには向いていない。気に入らないものは気に入らない。腹が立つものは腹が立つ。自分自身の感情コントロールが甘いのだ。

もはや生徒とも思えなくなった「若い女」に対して、いらだちしか覚えない。

「四十歳の私から見れば、宮脇さんだけでなく、中学生はみんな、若さが輝いていて美しいですよ。そういう話ではなく、からかう気持ちはあったのかなかったのか、確かめただけです」

 聡美もまた胸のうちに内蔵された「AI的機能」を立ち上げ、サイコからの質問に当たり障りのない定型文で返す。時間の無駄だと分かれば、そそくさとレスバトルの舞台から飛び降りるまでだ。

「悪意がなかったのならもう行ってよろしいですよ。大竹くんを呼んでください」

 一礼して部屋を後にしたサイコの口元は、「はい論破」と言わんばかりの微笑が貼り付き、自己顕示欲が甘い腐臭を放つ。

 腹は立つが、教師としてはいささか安心しないでもない。無表情になりきれないところがまだまだ子供、「感情はあるんだな。ゴリゴリのサイコパスじゃなさそうだ」と判断できる。

 締まりかけるドアの隙間から、廊下でサイコを待ちながら聞き耳をたてていた女子達の姿がチラリと覗き、

「すごいね、論破王。よくあんな、口が回るよね」

 と感嘆する姿が見て取れた。サイコは、「勝訴」という紙を広げたいくらい得意なくせに、さもつまらなそうに、

「なんか、ゾーン入ってたかも」

 とだけ呟き、パタパタと走り去った。
 

上の子、かわいくない症候群


千葉の学校から総武線で五十分ほどかけて、江戸川区のマンションに帰宅したララは、

「ただいま」

 と、湯気が出そうに蒸れたコンバースを脱ぎ捨てた。今日も「顔が濃いハーフは体臭がキツい」と陰口を言われた気がするが、言われてみれば自分の足は臭いのかもしれない。脱いだ靴下を鼻に押し付け、酸っぱい匂いに顔を顰める。

 玄関に、母と弟の靴はないようだ。

 リビングのソファーに寝転んでスマホを見ていた父親・宮脇カルロスは、ちょっと目をあげ、

「おお、お母さんはジョーの実験教室だ、冷蔵庫におやつがあるらしいぞ」
 
と告げると、そそくさと書斎に引っ込んだ。

 実家の家業である学習塾を継いだ父の職場は千葉市だが、経営者である彼は授業を受け持つことはないので、多分今日はリモートワークの日なのだろう。

 思春期の娘と父親は、基本的に相性が悪い。
 
お互いをホルモンレベルで煙たく感じ、避けるともなく避けてしまうのは自然の摂理だと聞いたことがある。

 とはいえ、公私共に学歴至上主義の父親にとって、万事不器用で成績にもムラがあり、自身の「受験メソッド」がまったく通用しなかったララを、特別に「持て余している」ことは一目瞭然だった。

 弟の宮脇誕(じょう)(ジョー)は、『ドラえもん』に出てくる出来杉君のように「抜かりない」小学二年生で、国立の難関・筑波大学附属小学校に通っている。

 ジョーは確かに優秀だが、抽選、試験、抽選の順に三度にわたって選抜が行われる筑波の試験は、選考基準が謎すぎて「ほぼオーディション」と言われる「実技くまさん歩き」なども含んでいるため、運によるところも大きい。

 どちらかというとジョー本人の優秀さというより、仕事をしながら子育て・受験対策、情報収集と要領よく立ち回った母・百合の強靭なメンタルの為せる技と言えるかもしれない。

 しかし、そんな父と母の実力を持ってしても仕上げることができず、筑波においては、最初の抽選は通ったものの試験では箸にも棒にも引っかからなかったのが、不肖の長女・ララだ。

 成績は中の中だが、忘れものが多く不注意な傾向があり、児童館のカウンセラーに発達障害の検査を勧められたこともある。

 しかし両親は、丸二日間かかる発達検査に積極的ではなく、知人が営む小児科で簡易検査を受けて「グレーゾーン」と言われただけだった。

 お茶の水女子大学理学部から東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部に進んだ百合は、同学部で一年早くバイオテクノロジーの研究をしていたカルロスと知り合って恋に落ち、オンオフを繰り返す二十代を経て結婚に至った。

 ちなみに父・カルロスは星薬科大学からの編入組で、大学院だけ東大に進んでおり、そんな彼の経歴を「学歴ロンダリング」と評した匿名ツイートを、誹謗中傷で通報するほど気にしている。

 ララとしては、子供の小学校受験に熱中するのは、そんな世間の目に反発しているのではないかと穿った見方をすることもある。

 母親の百合は、「ロシア系のハーフ」というパワーワードから連想するほどの美女ではない。

 素顔は十人並みだが好みが分かれる顔立ちで、ハーフにしては顔が大きく(と、いうか長く)、高すぎる鼻も若干目立つ。

 きっと青春時代も、カルロスの実妹である叔母・サリーンのようにモデルにスカウトされることはなかっただろう。それでも大きな瞳と長いまつげは華やかで、フルメイクをした彼女と歩いていて「きれいなお母さんだね」と言われたことは幾度となくある。

 現在もサプリメントを扱うバイオベンチャーで働いている彼女は筋肉質のスリム体型で、一にも二にも努力という姿勢で人生を勝ち続けてきた。

 あらゆる面で平均以上の高いスペックを持ちながら、「勉強なんて筋トレと同じでシンプル」と努力に気持ち良く酔うことができる似た者夫婦は、「努力できるのも才能のうちで個人差がある」ということを、頭では理解していても腹の底では認めていない節がある。

 もちろん、発達障害に対する知識はある。ただ、いざ自分の子となると、すんなり受け入れられるものではないらしい。

 小さい頃からボウッとしていて、いくら叱っても褒めてもなだめすかしても集中力が続かず、都内の難関私立超学校はすべて落ち、かろうじて千葉県のミッションスクールに滑り込んだ長女を嫌っているわけではないが、どう扱っていいのか分からない。

 ララは親に殴られたことはないし、目に見えて弟と差別されていたわけではない。ひどく怒鳴られ頭をはたかれたのも、車の前に飛び出した時くらいだし、抱っこされたことも撫でられたことも数え切れないほどある。

 母の百合はキャリアウーマン風のキャラに似合わずお菓子作りが趣味で、機嫌がいい時はそれなりにかわいがってもらっている。

 弟は生意気だが抜けた前歯がかわいいし、いい年をしてモテを意識していそうな振る舞いが苛つく父もときおり、独り言のようにオヤジギャグを言うところは嫌いじゃない。

 それでもララは、見てしまったのだ。

 夜中に喉が乾いて起きた時に、母親のノートパソコンから、「上の子かわいくない症候群」という文字が、禍々しい青い光りを放っている光景を。

 条件反射で「これはあまりにも気まずい。隠れなくてはいけない」と強く感じたララは、忍び足で自分の部屋に戻り、泣きながら叔母のサリーンに電話をした。

 話を聞いたサリーンは一瞬絶句したものの、すぐに落ち着いた口調になり「上の子かわいくない症候群」とは、「下の子と比べると上の子の方がかわいいと思えない」と親自身が実感することを指す言葉で、多くはホルモンバランスのバグで一時的なもの。時間が解決することが多い。

 最近、教育番組が取り上げて話題になっているのでニュースサイトにも多く配信されているのだろうと、説明した。

「なんかオキシトンっていうホルモンが関係しているらしいよ。でもさ、当たり前だけど、百合さんは別に『これララのことだよ』っていったわけではないんでしょ? 社会問題として興味持って、見ていただけかもよ?」

 サリーンはそうフォローしてくれたし、母親は、ただ調べ物をしていただけの可能性も大いにありえる。

 それでも「母がそんなページを見ていた」という事実以上に、「ねぇママこれって私のこと? 酷くない」と抗議できない関係性になってしまったことが、悲しいのだ。

 もっと言えば、長年漠然と感じていた「家族で自分だけ浮いている感」の答え合わせができた気がして、それ以来ララの喉に「上の子かわいくない症候群」という言葉が小骨のように引っかかり続けている。


#創作大賞2024

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