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『不登校少女と三人の美魔女』第五話 アイドルに恋してアテンドされかけた話


サイコ、心を改める


 
 ララがサイコに呼び止められたのは、日曜日の礼拝後、キッズに配った風船の残骸を捨てに来た、クリスチャンセンターのピロティだった。

「宮脇さん、ちょっといい。ベンチで話さない?」

 良くはない、全然良くはないのだが、その日のサイコの目は、簡単には固辞できない「せっぱつまった」オーラを発していた

 「なんか目が怖い」頭の中のアラートはそう告げていたが、教会というロケーションの為せる技か、

「別にいいけど……」

 という、「親切な言葉」が口をついてでた。

「あのさ、ちゃんと謝ってなかったから。あの、大竹を使って、意地悪をしたこと、本当にごめんなさい」

 座るなり謝意を表明してきたサイコに、ララは、どう答えていいか分からず「大竹! わざと使ったのかよ!」と思いながら、

「うん……」

 と口ごもる。

「私さ、昔、留学先で人種差別をされて。今でも、急にトラウマがフラッシュバックして、きついこと言ったり、怒鳴ったりしちゃうんだよね。親とかに対しても」

 ちょっと重すぎるな。そんなこと言われたら、責められないじゃないか、と内心戸惑いながらも、ララは的外れの相槌を打つ。

「ありそうだね、ヨーロッパとかだと」

「宮脇さんは、本当にきれいだし、言ったことは本音でもあるんだけど。あの場で言ったら、意地悪なマウントになることは分かってた。でもなんか、私少しおかしいから、思春期に入って、カッとなると衝動が抑えられなくてさ」

 サイコは「ほんと最低」と短く自嘲する。

「プライドは高いわ、劣等感を感じるとマウントを取りたい衝動が出るわ、彼氏にはわざと嫌われるような駄々をこねて愛情を試して振られるわ、もうボロボロっすわ」

「なんで急にそれを私に?」

「ええっと、うちの親離婚するんだ。父親の浮気で。ママの方についていくんだけど、けっこうパパっ子だったからさ。それでもう頭ぐっちゃぐちゃで鬱気味だから、牧師のローズさんのカウンセリングを受けているんだ、今」
 幼少期から教会に通っていたララは、そこまで聞けばなんとなく状況は把握できた。牧師に告解、というと少し硬すぎるが、メンタルカウンセリングの一貫で、今までの「罪」に向き合っているんだろう。

「ええと……『いいよ許すよ』って言って忘れる問題でもないし、私も割りとトラウマになってるんだけど……」

 サイコは「そりゃそうだよね」と、肩を落とす。

「でもさ、まぁ、とりあえず、謝ってくれた気持ちは受け取るよ。それに、もうそこまでうちのことは、気にしなくていいよ。うちはとりあえず今元気だし、そっちは自分の問題に集中していいよ」

 教会ということもあり、善意を総動員して、サイコにそう伝える。

「ありがとう。私も、謝って和解して、友達になれるとかムシのいいことは思っていない。ただ、二度とあんなことはしたくないって伝えたくてね。呼び止めてごめんね」

 サイコは、軽くララの手を握り、勢いよく立ち上がって、頭を下げた。
「うん、またね」

 ララが手を振り、サイコが背を向けたタイミングで、

「あのさ」

 なぜかララは、サイコを呼び止めていた。

「私、小学校の頃は、浮気する大人はクズだと思っていた。でも最近さ、友達になれないほど性格が悪いのと、異性にだらしないのは、別問題だと思いはじめた。『食い意地が張っているけどいいやつ』がいるみたいに」

 サイコは真顔になり、「それ、誰のこと」と首をかしげる。

「うちの親父。教会で会うから、知ってるでしょ。見るからにチャラいけど、見たまんまで多分浮気者なんだ。でも、性格は優しい方だよ。ママも仕事だかなんだか、外泊多いしさ。だからまぁなんていうか、親子問題と、夫婦問題は、切り離して考えると楽だよ」

 心中で「なんであたし、こんなアドバイスをしているんだろう」と疑問に思いながら思わず口走ったララに対し、サイコは

「カルロスさん……人は見た目によるな、やっぱ」

 とつぶやいて、子供らしい「ニヤリ顔」を残して走り去った。
 

ララ、まさかの失恋告白


 
「ああ、思春期も更年期も衝動が抑えられなくなるのは、分かるわ。『恋は嵐』っていうけどむしろ『女性ホルモンは嵐』だよね。恋はホルモンの嵐の中の、ほんの一部だわ」

 三人の中で一番ボーイッシュなのに、一番恋愛体質の藤子は、実感をこめてそうぼやいた。

「子供がいると子育てに逃げられるけど、あたしはそれもないし、結婚もしていないから親戚づきあいもない。ほんと思春期みたいなもんだよ。でも、きみらも他人事じゃないぞ」

 藤子はおもむろに、「自分には無縁」という顔で聞いていた聡美とサリーンを指差す。

「聡美は娘いるけど海外だし。サリーンは子なしで親戚づきあいも少なめ。それで三人でララちゃんにかまけて、いい年してスクールカーストとか言ってるの、これ、中年のご乱心の一種じゃないの?」

 三人は、「こわいこわい」と、自分を抱きしめる仕草をして、ララはケケケと怯える「中年たち」を指差して笑う。

「ララさ、あんた好きな男の子いないの? 好きな目立つオトコとくっついたら、スクールカースト的にはあがらない?」

 サリーンが思いつきでそう問いかけると、ララは思いがけず即答した。

「いないけど、正直、見た目が良くて、性格がおもしろい男子はだいたい推せます」

「なんかキャラ変わったな、きみは」

 「好きな男子なんていないです」とか、中学女子らしい答えを期待していた中年三人は、驚きを隠せず憮然とする。

「えっと、あんた、彼氏ってほしい?」

「どうかな。作るとしても、自慢したいとか優越感感じたいとか、性欲っていうよりまだ承認欲求ですね。実際できたら『こんなかっこいい子がアタシを好きだって』とかドキドキして、発情期に入るかもしれないけど」

 逆にサリーンが「性欲って、きゃっ」と照れくさそうに目を伏せる。

「こら、サリーン、おまえが赤面するな。中年はそういうの、かわいくないから」

 藤子に丸めたノートでバシッと突っ込まれて、サリーンは、「だってぇ。言い方ぁ」とくねくねする。

「うーん、じゃあさ、イケてる男子に告白されたら そこがゴールでよくない?」

 藤子がそう提案すると、ララは「グエ」と蛙のような奇声をもらす。

「やめてよ、私立とはいえ中3、今のままなら推薦で高校に入るだろうけど、不登校再発したら受験することになるし」

 保護者的立場のサリーンが苦情を漏らすと、教師の聡美もうんうんとうなずく。

 中年三人が、「だよな」「もうよくね?」「充分だよ」と勝手にうなずき合っていると、ララ本人が、

「彼氏がほしいわけじゃないけど、そしたら、ウチ、リハビリに学校が協賛する夏祭りライブに、自慢できる男子と行けるように、チャレンジしようかな。それならあんまり受験関係ないし」

 と提案する。近年、ララの通う私立・聖風学園は、地元の公園を借りて、文化祭も兼ねた夏祭りを開いている。

 学校関係者のみならず自治体ボランティアや地元企業も参加するが、やたら学生カップル率が高い、地域密着型の「プロム」のような行事だ。

「モテも、ちょっと研究したいです。ねぇサリーちゃん、みんなも、モテについてアドバイスしてくれます?」

「いいじゃん。うちの姪がプロムクイーンになるとか、スクールカーストリベンジの古典的フィナーレじゃない?」

「モテ。この聡美先生にモテについて聞いちゃった? 小一時間ほど語って良い?」

 ただひたすら「青春」が懐かしいお年頃のアベンジャーズは、遠い日の花火に思いを馳せる……。若者に語れば、さぞ、煙たがられるであろう「あまたの武勇伝」を頭に浮かべながら、にわかに目を輝かせはじめた。

「うち、美魔女アベンジャーズのおかげで俄然、学校生活が楽しくなったし。叔母ガチャ大当たりです。うちは課金できるゲームで、育成成功みたいな。でもガチャみたいにあたしにハマって課金しすぎないようにしてね」

「あたしにハマって課金するなってセリフ、かっこよすぎるんだけど。あんなにおどおどしていたのに、急激に強く育っている。ララあんた会ってない三ヵ月の間に、なにかあったね。教師の勘だけど」

 鋭い聡美に射るように見つめられ、ララは一瞬何かを告白しようと口を半開きにするが「やっぱやめた」と、思い直して、もったいぶるように紅茶をゴクリと飲む。

「秘密を作るのも、成長ですよね」。

 異様に生々しい響きを含んだ姪の言葉に、サリーンは不安をつのらせ、

「なんで? 知らないなになに? モデル活動でなにかあったの。男じゃないでしょうね。なんでも相談してよ」

 と泣き顔になる。ララはそんなサリーンをよしよしと撫でながら、

「男、ではないです。安心して。まぁ、助けてくれたのは男ですけど。レオンちゃん」

 と答え、意味深な含み笑いを漏らす。

「お願い。話して、眠れなくなる」

 涙目になるサリーンを見かねて、ララはポツポツと「交際に発展してはいないけれど、妙に濃かった失恋話」について語り始めた。
 

破れた恋とモーツァルト


 
 美魔女三人が「ララが痩せた」ことに満足し、後回しにしてきた「大人の雑事」に奮闘していた三ヵ月の間、ララは価値観や恋愛観を根本から揺るがす、天変地異のような恋を経験していた。正確には、男関係ではない、男ではないのだが……。
 



 ぬるいお天気雨に打たれ、前日までの寒暖差に苛まれながら、ララは人生初の「激ヤセ」を体験していた。

 失恋と同時に発症した急逝胃腸炎は完治した、と消化器内科の医師に言われたものの、メンタルからくる嫌な吐き気はまだ収まらない。

 一七一センチ、四五キロ。あまり売れてはいなかったものの現役のファッションモデルとしては、珍しくはない体型だ。

 とかいえ、健康な時は、五〇キロ代でも充分細長く見えていたララとしては、かなり病的な姿に成り果てていた。

もともと抑鬱傾向が強いララのヤワな心は「始めて好きな人に振られた」と言う衝撃と「しかも好きになった相手は女の子だった」という混乱で、完全にエラーをおこし、脳みそ全体がバグだらけだった。

 奇しくもその時期は、母親の百合はシンガポール出張からマレーシアのカンファレンスに参加して、長く不在にしていた。

 サリーンは夫婦で海外旅行に出かけた上に、その直前には自身の運営するダンス教室の発表会で大忙し。

 サリーンがいなければ藤子と連絡をとる機会はあまりなく、聡美とは学校で顔をあわせているが、亡き夫の法事の準備でてんてこまいと聞いて長話は気が引けた。

 その時期、彼女と弟のジョーの日常をサポートする人間は、父親のカルロスのみだった。 思春期の娘に関心が薄いカルロスは、キッズシッターを利用して相変わらず飲み歩いており、トイレで娘が吐いていても「変なもん食ったか? パパ、病院まで車で送ろうか」と、トンチンカンな気遣いを見せオロオロするだけだった。

 一般的に考えれば、十代の少女が「片思いの相手に拒否された」経験は、トラウマになるほどの事件ではない。

 しかし、発達障害傾向があって打たれ弱く、刺激に依存しやすいララにとって、失恋直後の二週間は薬物の離脱症状……もしくは、終わらない車酔いのように苦痛を伴う大惨事だった。

 車酔いとノロウイルス感染を足して二で割って喉を弱火で炙ったような不快な吐き気が、起きている間中ずっと続いていた。

 学校は四日休んだだけで、胃腸炎が回復してからは行ってはいたが、家で一人になると孤独に苛まれ、部屋で一人、吐くまで泣いていた。

 頭蓋骨の中から脳みそだけツルッと取り出されて電子レンジに突っ込まれ、クルクル回されているようなひどい気分だった。頭の中に、不愉快な泡立ちと熱を感じて、涙と汗と吐いた後に脳内に湧き出る生温かい汁で、必死にそれを冷まし続けた。

 オンラインでサリーンや藤子、聡美に相談することもできたかもしれない。とはいえ、半年もかけて自分をサポートしてくれた大人たちが、今は自分のことに集中していると理解していたので、ギリギリまでは泣きつくまいと決めていた。

 もしかしたら、無意識で、反抗期特有の「失恋の話は大人には相談したくない。いかに仲良しの叔母であっても」という頑なさも、首を擡げていたのかもしれない。

 ララは、目からも口からも鼻からもネバネバした液体を流し続ける妖怪のような体を引きずって、最近急速に仲良くなったモデル・レオンのマンションに向かっていた。

 レオンは音大生で、モデルだけではなく、趣味でヘアメイクの仕事をしたり、アロマセラビストの資格をとったり、自称・器用貧乏な才能を撒き散らしながら、優雅な大学生活を送っていた。

 元々彼は売れっ子子役モデルで、両親は息子が日本でキッズモデルとして「業界ズレ」していくことを恐れていた。

 高校時代に息子の未成年飲酒が問題になると、父親は会社に異動願いを出し、半ば強引に妻と息子を伴ってニューヨークに移住した。

 元来適応能力が高いレオンは義務教育であるアメリカの高校にもすぐ馴染み、飛び級で卒業した上に、奨学金を得て現地の音楽大学に入学することになった。

 しかし、摩天楼でも享楽的な性分を存分に発揮して遊びすぎてしまったせいで、せっかく手にした奨学金はあえなく取り消され、単身で帰国することに相成った。

 再びモデルとして社会に放り出される息子を心配した「太い財力を持つ父」の尽力もあり、ロック&ポップスコースを専攻できる神奈川の私立音大に再入学し、今は主に作曲技法を学んでいる。
 




 ララは、電車の中でも声をたてずにただ涙と鼻水を垂れ流し、通りすがりのおじさんにポケットティッシュを手渡されたりしながら、レオンの部屋に文字通り転がり込むとトイレに直行し、いきなり吐き散らかした。

 レオンは、吐き続けるララの背後に立って、お母さんのような手つきで顎まで伸びた髪を後ろに束ね、持ってくれていた。

「ちょっとララちゃん、あんた……。別に親が死んだわけじゃないんだからいくらなんでも凹みすぎじゃない? 振られたって片思いでしょ。手を出されたとか実害はないわけだしさ」

「ボリュ、バー、ソウナンダゲッ、ゲホッ…」

 そりゃ、まぁ、そうなんだけどさ……。という言葉を吐こうとしても、吐
いてしまうのは鼻の奥を焼くような苦い液体ばかり。

「ちょっ、落ち着きなさいよ。水持ってくるから。あんたはモデルで、若くて、しかも美少女。だいぶ強いカードが残っているわよ。初恋が破れたくらいで死なないでよ」

 レオンが水を取りにキッチンに行ってしまったので、湿り気を帯びた不快な黒髪がダラリと顎に垂れさがって顔に張り付いた。髪を払おうと頬に触れると、こんなにゲッソリ衰弱してもなお瑞々しい桃のような感触で、ツルリと指が滑った。

「モデルで、若くて、美少女」

 藁にも縋る気持ちで、自分が今持っているありったけの『いいカード』を広げてみても、『でも振られた』という一枚のカードでいとも簡単にひっくり返された。デカ鞄の底でくしゃくしゃになっていたテッシュで鼻をかみながら、水を持ってきてくれたレオンに、そう伝えると、

「その強いカードってさ、『フラれた』じゃないわよね。むしろ『メンタルが弱い』ってカードだと思うけど」

 と、言われて、余計、凹む。メンタルが弱い……そのカードは確かに、無敵の若さすら吹き飛ばす負の威力がある。

 手渡されたバーニーズの丸いオシャレグラスに穢れた舌を這わせるのは気が引けて、喉の奥に舌を貼り付けたまま軽く口をゆすいで吐き出してから、水を飲んだ。

 ほのかにレモンの香りがするスパークリングウォーターが汚れた喉を洗い流すと、爽やかな刺激で脳みその不快な泡が少しだけはじけて飛んで、気分が良くなった。

「これ、おいしい」

 涙声でそう言ってあのゴワゴワした安ティッシュで鼻を擦ると、レオンは嬉しそうな顔をして冷蔵庫からドイツ語のラベルつきのペットボトルを取り出して振って見せた

「でしょ? ほらあたしもさ、メンタルも三半規管も弱いほうじゃない。よく、調子が悪いと、吐くのよ。そういうとき、冷えすぎてない酸っぱい炭酸って、スッキリするよね」

 レオンがみっともなく取り乱す姿は一度も見たことはない。けれど、彼が繊細で傷つきやすい人間だ、っていうことは、なんとなく分かっていた。だから、ララは咄嗟にここに駆け込んだのだ。

 自分の感情がコントロールできないほど極限まで落ち込んだこの一週間、不条理で少し怖い要素を持ったものにだけ小さな安らぎを感じていた。

 普段は見ないような、猟奇的な殺人鬼の生い立ちを記録した本、ヒグマの凄惨な被害を記録したウィキペディア……そんなものと一緒にしたら、さすがのレオンも嫌な顔をするだろうか?
 
 



 レオンと共演したCMは好評を博したものの、ララのモデル業は明らかに停滞していた。

 オーディションは書類ではねられ続け、たまに行っても一次選考落ちばかり。ララが想像していたほど、トントン拍子に仕事は決まらなかった。

 コミュニケーション障害の傾向は落ち着いたものの、それでもまた「少し踊れる内気な少女」というレベルでしかない。

 オーディションルームでは、ガチガチに緊張して視線は泳ぎ、唇が震えだすような始末で、吃音こそ鳴りを潜めていたが、リラックスには程遠かった。

 大人に値踏みされるオーディションルームは、気の小さいララにとって、奴隷市場のようなものだった。

 拷問のように「視線」を体中に突き刺されて、恐怖で脇の下に汗をかきながら、代理店や制作会社の大人達に「挙動不審な女の子」という審判を下される、公開処刑。

 そんなしんどい思いまでして、

「ごめんダメだった。またよろしく」

 という不合格の電話を受け続け、いい加減心も折れかけていた。

 その頃、やっと手にした仕事が、元人気アイドルグループのメンバーだった若き女性デザイナーが立ち上げたばかりのランジェリーブランドの、ポスター撮影だった。

「ギャラは少ないけど、作品撮りだと思って、気楽にいってらっしゃいよ」
 事務所の女社長のそんな言葉に背中を押されて挑んだその現場で、ララはレオンと再会した。
 
 



 
 ポスター撮影当日、指定された六本木のスタジオを訪れたララは、いきなり目に飛び込んできた男女ひと組の超美形モデルに気後れしすぎて、ドアノブをつかんだままフリーズした。

 メイク室のドアを開くと、テーブルの端に小さな尻を載せた小顔の美少年が、後ろ向きでも分かる「信じなれないほど長い足」を投げ出していて、その下のパイプ椅子には、絵本から飛び出したような華奢な美少女が靴を脱いで柔らかく体を折り曲げ体育座りをしていた。

 低予算の撮影だからモデルはララ一人で、スタッフもカメラマンとヘアメイクだけだ、って聞いていたのに……どう見てもモデルにしか見えない美貌の二人の登場に混乱し、挨拶をするタイミングがうまく測れず立ち尽くしてしまった。

 しばらくすると気配を感じたのか美少年が振り向き、目があった瞬間満面の笑を浮かべ、抱きつくように長い腕を広げた。よく見ると、美少年はモデルのレオンだった。

「ララちゃんいらっしゃい。今日は、私がヘアメイク兼スタイリストなんだ」

 レオンはそう打ち明け、「なんでも屋さんなの」とニッっと笑う。
「普段はモデルで音大に行っているんだけど、趣味でヘアメイクをやったり、このブランドでプレスみたいなことしたり、あとアロマセラピーのサロンもたまに自宅でやってるんだ。今度、遊びに来て」

 ララは、レオン多才さに感心しつつ、傍らで笑顔を浮かべて目礼している美少女がブランドのデザイナーで元アイドルの梶原美奈であることに気がついて、目を丸くした。

「低予算の弱小アパレルの撮影だからね。なんでもやるの。紹介するね。カメラマンは社長兼デザイナーの梶原美奈。そしてスタイリストとヘイアメイクは、プレス担当は私」

 レオンが、不器用に両目を巻き込んでウインクをした。
 社長の梶原美奈は確か一九歳と聞いていたけれど、同世代にも見える愛らしい顔立ちをしていた。

 クスクスと笑いあう、つがいの天使を見れば見るほど、気後れでめまいがしそうだった。

 自分よりはるかに美しいスタッフに囲まれてカメラの前に立ち、撮影されなければいけない……一瞬、仮病を使って逃げ出すことが、頭をよぎったほどだった。
 
 ※
 
 撮影が始まるとカメラマンの美奈は脚立に上り、特にこだわりなく流していると思われるジャズのプレイリストにあわせて、折れそうな体を揺らしリズムを刻みながらシャッターを切った。

 ララが渡されたシンプルで比較的布面積の多いブラとショーツは、伸縮性の高いレースとチュールの一枚仕立てで着心地が良い。

 その上に、黒のシースルードレスを羽織って、ピンヒールをはいているが、ドレス自体は売り物ではないのか、わざと踏まれてひっかけたかのように破いてある。

 美奈は、まだ戸惑っているララに向かって、下から上に撫であげるような視線を飛ばし、満足そうに深く頷いた。

 グループで活動するアイドルは、ファッションモデルほど歯科矯正にこだわらないのだろうか。美奈の歯並びは基本的にはきれいだが、ニヤリと笑うとわずかに目立つ八重歯が光った。

「シナリオというか、勝手に私の中でストーリーを作っているんだけど。若くて真面目だけどちょっとメンタルが不安定なモデルが、彼氏への当てつけでパーティーに来て、ヤケになっている。クラブは苦手で、壁に寄りかかったり、飲み物を飲んだり、たまに踊ってはため息をつく、みたいな……」

 謎の注文を受けて、ララはぎこちなくポーズを変えた。

「うーんと、音楽に集中してみて。クラブにいるような気がしない?」

 そう言われてみても、クラブという場所は「親戚のお姉さんの結婚式の二次会」でしか行ったことがない十四才には、わけがわからない。

「そっか、中学生だったか……お酒を飲ませるわけにいかないしなぁ」

「ちょっと、前回の撮影でもやったけど、雰囲気作ってみる」

 レオンが、iPhoneを覗き込む。

「この前の、オアシス、どうだった? 何が好きって、言ってたっけ?」
 前回の撮影で流した、大好きなアニメのオープニングテーマが英国のロックバンド・オアシスの『Falling Down』だと聞かされたララは、レオンにラインで勧められたプレイリストを気に入って、移動中も繰り返し再生していた。

「えぇと、『Falling Down』もいいけど、『Don’t Look Back in Anger』が一番好き」

「あんた、ベタねぇ。でも、いいよね。あのサビはクセになるよね。そういえば、サリーの姪だもんね」

 言われてみれば、曲中に出てくる「サリー」という女性名は、サリーンを思わせる。

 レオンは部屋の隅でスマホをスピーカーに繋げて、がちゃがちゃと程よい音量に調節した。

 機材をテーブルに置くと、化粧ポーチからアロマオイルのような液体を取り出し、ララの顎を掴んでキスするように上を向かせ刷毛の柄を頬に突き立てオイルをツゥッと垂らした。

 音が香りに乗って、より直接的に脳に浸潤して、共感覚的に「ないはずの記憶」が立ち上がる。

「あんたは誰?」

 レオンがいたずらっぽく質問する。

「この場合、サリーかな?」

 ララも、ふざけて笑いながら、自分の頭の中で物語を組み立てる。

 私はサリー。別れそうな彼氏のいる十代の新人モデル。わがままで弱くて精神的に不安定。そう、あのサイコのように。

 ただの試し行動だった。彼氏の女友達に嫉妬して、相手にも嫉妬させたいがために、シースルーがドレスコードのレセプションパーティーに来たサリー。人混みが怖くて、慣れない酒を飲んでしまった。追いかけてきてくれた彼氏は、他の男と踊っている私を見て、黙って首を振り、扉を閉めた。

 AIが作ったありがちな海外ドラマのような架空のストーリーが、まるで自分のことのように、感情をかき混ぜた。

 ララはカクテルに見立てたジュースを右手に持つと、首から後ろに反り返るポーズをとり、エクステの長い髪を肩甲骨に這わせた。

 音楽を、むき出しの喉から吸収するように髪を揺らすと、口紅で胸元に描いたキスマーク風のポイントが、赤く浮き上がってよく映えた。

「めっちゃ、いい」

 美奈の小さな顔に、攻撃的な笑みが浮かぶ。

 フェミニンな美少女だったはずの美奈が片方の唇の端を釣り上げると、小麦色の頬に深い笑窪が刻まれ、海賊少年のようなやんちゃなオーラが溢れた。

「カメラマンがノッてきた!」
 
レオンが感嘆の声を上げる。

 香りなのか、音なのか、それとも美奈なのか……刺激的に酔ったララは高揚し、華奢な体を折り曲げ、伸ばし、捻りあげ、習ったばかりのヨガポーズを駆使して柔らかくポーズをとった。

「ヨシッ! オッケー。美味しそうな女の子に撮れた」

 美奈はまとめていた髪を解きフゥッと気だるげにため息をついた。

 撮影が、終わった。

 ララは、温水プールを全力で泳ぎきった後のような感覚でその場にへたりこんだ。

 美奈はそんなララを、ちょっとふざけた笑みを浮かべながらセクシーな脚裁きで跨ぎ、スタジオを横切った。去り際に

「よかった。かわいいな」
 
何故か関西風のイントネーションで言って、グニャっとしているララの頭をクシャクシャッと乱暴に掻き回す。

 その瞬間は、ララの人生初めての初恋の相手が図らずも、同性、ということになってしまった、記念日となった。
「あたしのおばあちゃんは大阪で芸者をしていたんだ。で、おじいちゃんっていうか、おばあちゃんの旦那は、置屋の主人だったの」

 ほぅ、とララは、甘い痺れを溶かしたため息をつく。

「だからあたしの中にはね、粋な芸者と抜け目のない女衒の、両方の血が流れてるの。それでさ、私の中の女衒がララちゃんのこと、ど真ん中で、どタイプだって言ってる」

 いつの間にかバレリーナのようにキツく纏められた美しい黒髪、瑞々しく薄い唇、内側に蜜を塗ったように甘い艶のある肌……極めつけが、下向きのまつ毛が影を落とす潤んだ瞳。

 一重で切れ長なのに不思議なほど大きく涼しげな瞳で見つめられると、高揚と安らぎを同時に覚えて、目がそらせなくなる。

 レオンは、

「ほんっと、やめときなさいよ」

 ウンザリした顔で制止したけれど、美奈は、

「なによお。今度、作品撮りのモデルになって、って言いたいだけ」

 と、子猫のような目で睨みつけた。
 
 




 
 ララに対する軽いチョッカイが、五歳から芸能界にいて文字通り老若男女と恋愛してきた美奈の、ほんのいたずら心だったことぐらい、途中から分かっていた。

 作品撮りにかこつけて呼び出されたのは、彼女の母親の名義で投資用に買って、貸しスタジオとして使っているという、冗談みたいにゴージャスマンションだった。

 そこでララは、スタジオのセットとして特別に作らせたという鳥かご型の小道具に入れられて、セミヌードの撮影をした。

「ララちゃんは、骨が美しいの。いや、顔だって、相当可愛いよ。でもね、それ以上に骨が完璧。骨がキレイって美しさの最上級だよ。ほら、私は顔はいいけど、チビだし骨的は平凡なの」

 美奈は、薄桃色のチークをはたきながらララの頬を撫でる、

「顔なんかいくらでも整形できるけど、骨は変えられない。ララちゃんの体は芸術だよ」

 撮影の合間にふざけて抱き寄せられて、軽くキスされたくらいで、恋人になったつもりでいたわけではなかった。

 ただ、少なくともララは美奈にとって、最近ハマっているお気に入りのキャラクターグッズ程度には「大事なもの」、そう自負していた。
 美奈は、ララに対する賛辞を惜しまなかった。それが彼女特有の人心掌握術だという人もいたけれど……。

「芸能界には綺麗な人はたくさんいるけれど、ララちゃんくらい、美しいのに欲のない人はそういない。ララちゃんに会うたびに、私、本当、感動しちゃうよ」

 ファインダー越しに浴びせられる賛辞は、魔法の粉のように飛び散り、謙遜で振り払ったつもりでもくすぐったく首筋にまとわりつく。

「私、職業柄、十代の頃から、超一流のアーティストとたくさんお付き合いしてきたよ。当時まだデビュー前だったミュージシャン、売れる直前だった小説家や、映画監督とも」

 まだ十代の美奈は、その姿のまま、五十年以上は生き続けているかのような物言いをする。

「本当に不思議なくらい、私はお付き合いしたアーティストは有名になるの。みんなよく言ってた。君はあげまんなのか、目利きなのか、それとも未来が見えてるのか、って。私ね、分かるの。ララちゃんもこれから、売れっ子になる」

 そんな言葉を、ララの乾いた自己顕示欲が貪欲に吸収した。
 
 最初は妹みたいにくっついて回っているだけで、ただただ楽しかった。
本来ならテレビや雑誌の向こうにいて、こちら側が一方的に憧れるような距離感であるはずの美しい人が、惜しげなく愛ある言葉を浴びせてくれるだけで充分光栄だったはずだ。それなのに、いつのまにか「そのこと」そのものにハマって、中毒になっていた。

 美奈にキラキラした言葉で称賛されないと、脳に栄養が行き渡らない。ドーパミンもアドレナリンも、少し足りなくなる。

 その頃にはもう、自力では身動きがとれない状態で…あの作品撮りの日と同じように、ヌード同然の無防備さで鳥かごの中に押し込められていた。
よく考えると、美奈の周りにはララ以外にもそんな男女がたくさんいた。

 それでも、確かにほんの数週間だけは、その中でも特別な寵愛を受けていたはずだ。

 中高学生の「恋愛」は平均三ヵ月と言う説もあけれど、そんな感覚を持ってしてもなお「短すぎる」蜜月に終わりの兆しが見え始めたのは、ララが美奈の身の周りの男達に対するヤキモチを隠しきれなくなった時だった。



 決定的な決別のきっかけになった最後のケンカは、男関係だった。
 
 美奈はカメラマンに撮影会モデルを紹介するアデンドをしており、そのことで副収入を得ていた。
そんな仕事の一貫で美奈は、ララをカフェチェーンの個室スペースに呼び出し、二〇歳のメンズモデル俳優兼カメラマンを同席させたのだ。

 あろうことか彼は美奈の元恋人で、いつの間にか美奈は会計の紙を持って姿を消し、取り残されたララは男と二人きりにされていた。

「えぇ? 一四歳? 口説いたら、手が後ろに回るやつだ。まぁいいや。普通に公園で一日、ビニールプールでショートパンツ姿の撮影をするは、君には一万円でいいのかな?」

 いいわけがないだろう。事務所はどうなるんだ、その場合。

 言いたいことは山ほどあったが、眼の前の知らない男性が怖く思え、その場ではなにひとつ言葉にならなかった。

 何も知らずに呼び出され、屈辱のあまりに椅子を蹴って逃げ出したララは、興奮状態で美奈の家に押しかけて泣きながら抗議した。

「うちを売ってどうするつもり?」

 美奈は、何を大げさな、とでも言うようにうんざりした顔で頭を掻いた

「違うよ。結局なにもなかったんだから別にいいじゃない? ホテルに二人きりにしたなら、ともかくさ、チェーン店のカフェだよ?」

 さも侵害だというように、眉を顰める。

「彼のアパレルブランドのDMで、顔出しなし脚だけのモデルになれば、そのうち事務所を通した仕事も、もらえるんじゃないかと思っただけ」

 ララ信じられない、と小さく叫んで、芝居がかった仕草で美奈を睨みつけた。

「それって、枕営業みたい」

「言い方。言い方に気をつけてよね。別に強要したわけでもないし、仮に枕営業だったらなによ。そもそもそういう業界だって知っていて、入ってきたんでしょう?」

美奈も、挑戦的な目で睨み返す。

「そんなことない。業界は、関係ないよ。どんな業界だって真面目に活動する人はいるし、逆に枕営業をするような人はどこへ行ったって同じ! 学校だったら先生を誘惑するだろうし、会社なら上司とパパ活をするよ」

 ララは、モデルになる前にサリーンに行かされた「危機管理」の講座を思い出す。

「枕営業をする人は、もともとそういう人なんだよ。自分がちゃんとしていれば、どんな業界にいても真面目に活動できるもん。そりゃ、危ない目にあいそうなこともあるかもしれないけど、自分がしっかりしてれば、避けられるよ」
「ふぅん?」

 美奈の可憐な片頬に、皮肉な笑窪が浮かぶ。

「ララちゃん、あんた今いくつだっけ? もしそれがさ、一二歳だったら、どうよ? 泊まりがけのお仕事で、社長にいたずらされたらそれも自分がちゃんとしてないから? しかもさ、まさかの女社長だったらどう? 」

 美奈は、いつになく強い口調で、叩きつけるように言葉を放つ

「女の人なら、って安心して同じ部屋に泊まるよね? 自分がたまたまラッキーで、嫌な目にあってないってだけで、偉そうに言わないで。危ない目にあいそうだったら避ければいい? 生意気言わないでよ。ロクに仕事もないくせに」

 ララは、美奈の瞳のあまりの冷たさに、絶句した。

 美奈が最初に所属していた清純派美少女揃いの芸能事務所の社長が、同性タレントの保護者に「未成年へのセクハラ行為」で訴えたれているというニュースが頭に浮かび、嫌な残存を残したまま消えた。

 美奈は、片手に持ったウーロン茶のように酒のクイッと煽って、心底不愉快そうなため息をつく。

「謝るわよ。先に帰ってごめんなさいね。でもね、ララちゃん。私、もう付き合いきれない。コンポジット用の作品を増やしたいっていうから、カメラマンを紹介したら、あたしを売ったの?゛ってわめかれてもね」

 出会った頃は見蕩れていた、顔に似合わない男っぽい皮肉な笑みに、背筋がバリッと凍りついた。

 取り返しのつかないことを言ってしまったことは、もう痛いほど分かっていた。

 ララは項垂れたまま、声にならない掠れた声で、

「ごめんなさい、言いすぎました……」

と呟いた。

 顔を上げて、懇願するように目を覗き込んだけれど、いくら奥まで入ろうと強く見つめても美奈の顔は人形のように無機質だった。

 あの時の美奈の温度のない石のような目を思い出すだけで、また、苦い胃液が込上げてきた。



 
 レオンに部屋で美奈を思い出しているうちに、またざわめきだした頭を抱えて丸く蹲るララ。そんな彼女に、レオンは子猫の死骸でも見るような悲しそうな視線を落とした。

「かわいそうにね……。うん。どう考えても、あんたじゃ美奈は無理だった。同性だからじゃないわよ。経験値が、あまりにも違いすぎる」

 続けてレオンは、主食の好みを尋ねるように聞く。

「あんた、元々、女の子好きなの?」

「ううん。女だからじゃなくて、美奈だから好き。疑似恋愛相手のアニメキャラや、推しのアイドルや俳優は、昔からみんな男」
 
「それなら、傷は浅いかな? ああ見えて、美奈は極悪人じゃないから嫌わないでやって。手を出さなかっただけ、大人だよ」

 レオンは、遠慮がちに友人である美奈をフォローする。

「でもあんたにはあわない。分かっているなら、馬に蹴られてでも止めてあげればよかったんだけど、まさか、あんたがここまで弱いとは思ってなかったから」

 そう言ってレオンは、壁に埋め込まれるように設置されている古風なCDラックに手を伸ばし、ヒョイと一枚アルバムを抜き出してプレイヤーにセットした。

 リモコンのボタンを押すと、流れてきたのは、柄にも無くモーツァルトだった。

 レオンは目をつむって、音階を吸収して咀嚼するように、頭を揺らした

「モーツァルトの音楽って、欝っぽくなっちゃった人の心を癒す効果があるって、知ってた?」

「ううん……」

「あれってさ、実はモーツァルト自身がさ、メンタルが弱くて脳内のドーパミン不足に苦しんでいたから、脳を刺激してドーパミンを出して楽にしてくれるような、心が休まる音階を追い求めた、って説があるの」

 ララは、「発達障害みたいなやつ?」と質問し、レオンは「そうかも」と答える。

「なんかさ、ジャンキーが、苦しくて苦しくて薬を必死に求めるみたいに、気持ちがいい音階を追い求めていたんじゃないか? なんて想像しちゃってさ。そんな人間が、やむにやまれず捻り出した音が、人を癒す美しい音楽になったなんて切なくない?」

 ララは「そんなもん?」と受け流す。

「でもさ、そう考えると、どのクリエイターにも多かれ少なかれ、そういう傾向はあるわけよね。つまり逆に考えるとさ、メンタルが弱い、ってなかなか、クリエィティブなことで人様の役に立つこともあるってこと」

 鉄道マニアの子供が電車について語る時のように、目をパチパチしながら薀蓄をたれるレオンは、いつにもましてかわいくてキレイだった。クルンと上向きにカールした長いまつげが揺れすぎて、触ったら抜け落ちちゃいそうだ。

「うん。まぁレオンちゃんは音大生だしアーティストだから、その繊細さで人の役に立てるかもしれない。でも、うちは、アーティストでもクリエイターでもなんでもないからさ。ただ単に、弱いだけだよ」

「あら、モデルだってかなりクリエィティブな仕事よぉ。まぁあんたは、あんまり向いてないかもしれないけど。でも、そんなに弱いってことはさ、なにか創作に向いてるんじゃない?」

 慰めようとするレオンの気持ちは嬉しかった。でも、クリエイターにメンタルが弱い人が多いのは分かったけれど、メンタルが弱いから、クリエイターになれるわけでもなかろうに。

 ララは、鼻にしわを寄せて、しかめっ面をしてみせた。

 せっかくレオンが深い話をしてくれているのに、

「そうか、モーツァルト……意外と大変だったんだな。ま、うちもだよ……」

 くらいの、軽い同情はしたものの、正直モーツァルトどころではなかったのでなんとはなしにその話を聞き流していた。

 洗面所で手と顔を洗って、やたらフワフワしたオレンジ色のソファにへたりこむと、レオンは、

「聴覚では癒やされないタイプ? じゃ、あっちか」

 いかにもかわいい仕草で手をたたいて、引き出しの中から五種類くらいのアロマオイルを取り出し、おもむろに調合し始めた。

 女子力の塊みたいな彼は、動きのひとつひとつがアニメみたいに可愛らしかった。

 引き出しにビッシリ詰まった繊細なガラス瓶の蓋を撫でるようになぞって、いくつかの小瓶をチョイスし、白い皿に液を垂らし、銀色の匙に絡めて大事そうにかき混ぜる……。

 少女じみた顔の割に、ゴツゴツ節ばった指が、愛らしくなめらかに揺れる様が、セクシーな魔法使いみたいに見えた。

 レオンは、出来上がった液体をパフに浸し、自分の鼻先にあてがってみて青汁を飲んだように顔を顰めてから、ニヤッと笑ってこっちを見た。

 レオンがなんだかよからぬことをたくらんでいるのを感じて、思わず身を引いたララの後頭部を逃さないように、大きな手でグイッと掴んで薄い胸に抱き寄せ、パフを強引に鼻先に押し付けた。

 アニメの中で、悪者にクロロホルムを嗅がせる悪役みたい……。

「心が楽になる香りよ。ちょっとくさいけどな」
 
確かに、ツンと刺激的すぎてあまりいい香りとは思えなかった。
 
 でも、嗅いだ瞬間、脳みその柔らかいシワの間に無理やりなにかが割ってはいるのを感じて、やかんで、いい加減のお湯を注がれたようにアツくなった。

「変な匂い……効かねぇな」
 
上気した顔をごまかすように文句をいいながら、ララは、レオンに掴まれた時に乱れた髪を軽くならすと、無意識に、ソファに置かれていた季節はずれのみかんの皮をむき始めた。やっと自分から固形物を口にしようとしたララを見て、レオンも、

「効いてるじゃん。ヤな女」

 と、優しく鼻にしわをよせた。
 



  
 一息つき、

「なんか失恋を人に話すと楽になります。飼っていた金魚のお墓、作って埋めているみたい」

 サッパリ顔で笑顔を浮かべたララに対し、サリーンは比喩でもなんでもなく、ダラダラ涙を流して「泣いていた」。

「嘘でしょう。なんでそんな時に旅行とか行ったの。あたしのバカ」

 衝動的にララを抱きしめようとするサリーンを、ララが「重い、エモい、愛が重すぎ。サリーちゃん落ち着いて」と身を引き、変わりにサリーンの頭をナデナデする。

 ララに肩を預けて「だって」と泣いているサリーンを指差し、「どっちが失恋したんだ」と聡美と藤子がゲラゲラ笑う。

 教師としてカウンセラーとして、非行少年・非行少女の生々しい激白に慣れてしまった聡美は、正直「かわいそうだけど、最悪の展開ではなかった。性被害がないのがなにより」と、安堵すら覚えた。

 藤子も、恋愛対象性別が曖昧になりがちなファッションモデル業界に長く居座るうちに、若者の風変わりな失恋話に免疫ができていた。

「ほら。モデルってさ、中性的な見た目じゃない? だからなのかノンバイナリーっぽい子も多いの、うちの事務所。だから、これからもそういうことはあるかもしれないよ。元々中性的な子が多いのか、思春期に無理に細い体を作るからホルモンが揺れるのか……」

 藤子は、鶏が先か卵が先かと首をかしげる。

「私にも覚えがあるけど、梶原美奈かぁ。ララちゃんが一八歳で経験したことなら想定内でも、成人するまでは『アテンダー』的な業界人とは距離を置いてほしいね。そのへん、事務所も相談に乗るよ」

 続けて、冷静に忠告した。

「藤子、身に覚えってどのへんが? 女の子好きになったことあるの?」

 芸能界に疎い聡美は、サリーンや藤子からしたら「食の好み」くらいありふれた性自認問題に食いつき、素朴な疑問を口にしながら、

「ちなみに私は高校が女子校だし、先輩にバレンタインチョコくらいは渡したことがあるぞ」

 なぜかちょっと誇らしそうに振り返る。

「そっちじゃない。そりゃ仮に好きな宝塚女優に告白されたら付き合うけど、身に覚えがあるのはアテンダーの方。サリーンもあるよね。元モデルのきれいなマダムに誘われてワインの会に行ったら広告代理店のギャラ飲みだった、みたいなこと」

「行ったねーワインの会。代理店の専務の親父とかに『これイッキ飲みしたら三万円やる』とか言われて、腹が立ったからガムシロップ渡して『お酒は弱いので無理です。逆に、これイッキ飲みしてくれたら三百円あげます』ってやり返したわ」

 サリーンは自慢にならない武勇伝を披露しつつ、プライドの痛みがフラッシュバックしたのか「なんのご祝儀だよ、三万て」と顔をしかめる。

「え……三万もらえるならあたし飲むかも。で、タクシー代もらって帰るわ」

 陽キャゆえに屈託がなく酒豪の聡美は健康的な図太さを見せつけ、屈折したプライドを持つモデルコンビから「お前教師だろ」「不健全よ」とブーイングを受ける。

「うちの事務所の若いモデルちゃんの話なんかを思い出すと、あくまで比較論だけど、聞く限りそこまで悪質じゃないし、悪い子じゃなさそうなんだけどね。その美奈とやら」

「そうだね、教師としてはなんか、サイコに近しい仕上がりを感じる。サイコ、奴はアイドルに向いているんじゃないか?」。

 美奈の人柄を推察する藤子と聡美に対し、モデル業は数年で辞めて就職した経験もなく、ある意味箱入り奥様であるサリーンは、

「二人共スレすぎ。そんな不良娘最低。サイコも美奈もいや。うちのベビーちゃんになにするんだ」

 涙目で取り乱す。

 聡美は芸能界に縁がなく、サリーンは東京で就労した経験が少ない。
「聡美とサリーンはあれだな、まったく違う方向性で『擦れてない』んだよね。全方位すれっからしのあたしから見ると、二人共かわいいわ」

 藤子が、ケラケラと笑う。

「そんなことより、ララ、体調はもう落ち着いたの?」

 聡美の問いかけに、ララは「そこそこ」と答え、ポケットからアロスプレーとおぼしき瓶を取り出して、ハンカチに吹き付けて鼻に当てて見せた。

「レオンちゃんの、抑うつに効くかもしれないアロマスプレーと、モーツァルトで、大分癒やされた。それにレオンちゃんが、イケメン中学生の従兄弟君を紹介してくれるって言ってるし、大分浮上したよ」

 若者らしい健全な回復力に、サリーンもようやく、ほっとした顔を見せる。

「イケメン中学生。また不良メンズモデルとかじゃないでしょうね?」

 やや警戒気味にサリーンが疑いの声を漏らすと、

「ううん。普通の子。バスケ部でサーファーの中学生だって。もしかしたら彼女いるかもしれないけど、リハビリに同級生男子慣れしとこう、って、今度フリマに連れてきてくれる」

 年相応の「かわいい紹介話」に胸をなでおろした三人は、「保護者も同伴させろ」とララに要求し、「えーだめー」と断られて、揃って子供のように悲しそうな顔をする。そんな三人を笑い飛ばすララのメンタルは、見違えるように進化していた。

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