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哲学③形而上学的不死思想について考えたこと

※この文章は、学生時代に哲学の授業レポートで書き記したものとなります。

形而上学的不死思想とは、「この現実を生きている生身の人間には経験不可能であるはずの死後の世界を想定した上で、魂の不死不滅を考えようとする」ものであると学んだ。これに対し、ハイデガーは非形而上学的不死思想を提唱した。それは、日常に潜む地続きの死というべきであろうか。
ヘーゲルやショーペンハウアーが考えた死は、ハイデガーのような生の連続した先にある延長線上の死ではなく、あちら側とこちら側に一本明確な線を設け、そこから生と死を区別しているようなそんな感じがする。
私は元々家が日本神道なので(といってもお葬式は仏教式という完全なる神道ではないが)、キリスト教的な死も、汎神論的な死も両者ともに感覚としてなんとなく分かる。
そうかといって、ハイデガーの述べる日常の延長線上にある死が分からない訳でもない。

私は大学2年生のとき、愛犬をガンで亡くした。朝07:30頃、身体全体で息をしていた愛犬を見たが最後、08:00頃に彼女を見ると既にもぬけの殻となっていた。
あれはまさに、もぬけの殻といった表現がぴったりだったと思う。抱きしめるとまだ温かく、柔らかな毛並みが本当に死んだとは思わせなかったから。

動物彫刻家である、はしもとみお氏は、死を「輪郭を保つもの」であると定義した。私はこの言葉が妙にしっくり来ている。生前は意思を持って人間に抱かれても自らの力で態勢を維持していたのに、今や抱いても手応えがなく、くてん、としている。
死ぬと身体は輪郭を保てない。その輪郭を保つものは生。
しかし、では輪郭がなくなるその一瞬の間に体を動かしていた意識や魂は、何処へ行ってしまったのだろうか。もし死が地続きのようなものであるならば、彼女の存在はすぐそばに居るのだろうか。

それが、今となっても、分からないままである。

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