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aki先生、インドネシアで性教育を考える

先週水曜日の夜、私の働いているセンターの女子寮の寄宿生から私にメールが入った。

「なんということ!Miss Aki、FとMという2人の少女がいなくなりました。他の子と対立したのをキッカケにナイフを持って逃げました。怖いです。寮は全て部屋に鍵をかけてみんな閉じ籠っています。」

FとMという2人の少女とは、他の島で検挙された売春斡旋組織の犠牲者である。2人ともつい2週間前に入所し、他の2人の少女とともに月曜に私のクラスを見学しに来た。

この手のことについては、私はフェミニスト側にいる。

そして年少の売春婦や少年に関しては、売っている奴ではなく、どうしても買う奴が悪い(あるいは弱すぎる)と思う。買う奴らを更生しない限り永遠に続く。インドネシアではいまだに処女に高値がつくという。精力がつくという迷信故にだ。尤も、インドネシアが男性上位社会だからとか、ムスリムの一夫多妻制とか以前に、女はどんな人間社会でも、多かれ少なかれ男に支配されている。妊娠して子を孕む間安全を担保されなければならないからだ。そしてその後も女が乳児を育てながら、1人で天災地変や人災に備えるのは非常に難しい。生まれてすぐ立てる動物とは違って、人間の子どもがあまりにも先天的早産だからだ。そしてjuvenileたちの身体は見かけが成熟していても、知的好奇心は旺盛でも、一部の内臓や脳内のホルモン分泌などはまだ発達途上で、今しばらく年齢に応じた生活が必要だ。成人してもまだアルコールやニコチンがNGなのは、脳も肝臓も飲酒喫煙を自分に合わせてコントロールする能力を備えていないからだ。

衛生面とか性感染症について言えば、日本でもCovidを恐れてマスクを切らさなかった連中の中にも、不特定多数を相手にしている女を金で買うアホがいた。そしてこの国の男性も、日に5度の祈りを励行し、全員割礼を受けて小用のたびにウォシュレットで股間を洗浄し、わざわざ握手は避けて拳で挨拶する一方で買春とは不知も破戒もいいとこで、やることが矛盾している。

真面目なインドネシア語の学習サイトを運営している日本人男が、ジャカルタのブロックMのカラオケ店で女と遊んだ体験談をブログで垂れ流している。当地のカラオケ店は歌うのが主目的ではなくセックスワーカーの奉仕する風俗である。個室に女を呼び、チヤホヤされて鼻の下を伸ばし、「お触りOK」を堪能、ときた。Shame on you. あどけない顔に巧みに厚化粧した小娘にチョロいとせびられているのに気づかないばかりか、インドネシア語の女の口説き文句を並べて読者に勧めている。同じく浅薄な友達と興味本位でブロックMを訪れたのだろうが、対している女性たちはインドネシアのrising generationであり、本来決して粗末にしてはならないところ、社会悪の片棒を担いでいることに気づかないでいる。

インドネシアではこういう風俗サービス利用客は成人人口の5%だという。男性が100人歩いていたら何人かは思い当たることをしている連中ということか。今日はもう200人くらいとすれ違ったから、そのうち10名くらいだ。その10名もおそらくちゃんと毎日働いて納税しているだろうが、その税金はそんな少女たちを買春シンジケートから救出して私のクラスに送り込むことにも使われている。

そうとは聞いていなかったが、私の活動は、身体障害あるいは精神障害との葛藤ではなく、つまりは拭っても拭っても永遠になくならない社会悪との闘いだということが見えてきた。私のクラスは女子が多く、生徒の属性割合では近親強姦、少女売春など、性犯罪被害者は突出して多い。詳しくは書けないが、なかなかに深刻なケースもある。更生プログラムや施設が確立されていないこの国では、受け皿が間に合っていないのか、本来身体障害者の職業訓練施設にまで、そういう被害者が突っ込まれて来る。施設に送られるのはまだ幸運な方で、摘発を逃れているケースの方が断然多いと聞いた。

まだあどけない少女たちである

背景はいろいろだ。親に女衒に売られた子、自らを火の中に身を投じる子、明るく優しく他人に微笑むのは見せかけか。彼女たちは不安定で感情をコントロールできない。教室で泣き出すのはいい。深夜の路上ではなく、安全な場所で泣きたいだけ泣くことが必要だ。ところが、2人はそれをしてくれずに、寮の台所から包丁を持ち出し、警備員を脅して脱走し、夜の闇に消えた。それはつい4日前のこと。ある意味自立しており、身体で稼げるから、お堅いプログラムや悠長そのもののMiss Akiの手芸クラスや寮の質素な食卓なんかクソ食らえ、で行ってしまった。まだあどけない、でも他人に阿る術をすでに身につけている16歳の無銭の2人が、年齢にそぐわない妖艶さを使って今後どんな人生を隠れながら送るのだろう。朝靄が深く、表の通りは50mくらい先までしか見えなかったその日、他の寄宿生や一部の保護者たちは思いがけない新入生の行動に当惑し、私には祈るしか2人にできることはなくなってしまった。

そもそも、人間の性愛を専門に研究した学問体系がなく、子どもたちには生理現象に関する説明だけを切り取って教え、肝心の部分は文学や映画やポップス、ポルノにお任せしている。田辺聖子氏ではないが、ポルノも本番本番と言うが、ポルノ愛好者たちがそんなに真実に価値を置くならば、妊娠や悪阻、切迫早産や出産以降のシーンも入れてはどうか。それがリアリティというものだ。食う寝るの次に大事なはずが、教えるべき親や教師は言語化してちゃんと理解してないのではないか。国際関係学部とか経済学部はやっても、性愛学部や恋愛学部は作らない。もし私が生きているうちに設立されるなら是非とも学士入学し研究したい。

小さい頃から人間の尊厳というものにすごくこだわりがあった私は、生意気にも19歳でモア・リポートやハイト・リポートをベッド下に隠して貪り読んでいたが、レポートされていた多数の無記名の人々の性についての行動や考え方は、兄や友達から入れ知恵された卑猥な性の知識と大いにギャップがあった、男はみんなオオカミとか言っていたが、現実は相当歪められていると感じた。恰もオオカミたれ、と社会から迫られているのが本当かもしれないと思うようになった。当時から私は人間の性が人格と直結していると考えていた。リポートに掲載されていた個々の人々の声は男性も女性もそう変わらず、正直な身の丈の意見が多く、僕はエロ漫画見るとキモくてムカムカします、あのようにしなければいけないのか悩みます、と、多かれ少なかれ氾濫し歪んだ情報に揺動されて当惑していた。自分という人間もそのような行いの結果創造された産物であるとしたら、自己の尊厳はどうなるのか、レクリエーション化されたセックスは何故必要かと疑問を持つ人、パートナーとよくコミュニケすることを望んでいる人は男女ともに多かった。その後、NPOで活動していた時に知った、考えるプロセスをスキップし、無知蒙昧に身体をおもちゃにした結果の妊娠堕胎を繰り返し、感染して最後は惨憺たる人生を送る連中や、一晩を¥500で売る養護施設の少女たちの激しい孤独感、ひいては精神障害者の息子の性を「責任から」支配する母親、W大生が関わった集団輪姦事件、人間が人間をそんな目に合わせる残酷さを見聞きしては、性の問題は社会の問題なのだと確信した。聖書が姦淫する勿れと説くその意味は、婚外性交やエロスを禁じたというより、人間の尊厳を疎かにしている人間社会への警告を企図したものでなかったか。

教育熱心な親たちは、子どもたちへの食育や習い事の応援には余念がないが、性に関しては教えないで各自が自分で悟れと言うのは少し無茶な話だと思わないか。政治家は合計特殊出生率の数字を見ては生産人口が足りないことの弊害を言う。彼らは自分の年金額を電卓で弾いて、いま初めて女どもに裏切られたと知ったかのように狼狽した。子どもを産まなくなったのは、女どもの社会進出という自己主張の結果だと言わんばかりだが、妻子を放置し夫や父の役割を振り返らなかった代償だとはあまり思っておらず、会社のせいにして深夜までデスクにしがみつこうとし、収入不足を補う投資案件を探している。仕事や金の心配もしながら腎臓をフル回転させて胎児の血液を浄化してやり、腹の中を10ヶ月も別人格の人間に貸し与え、血を流してその子を産み、その後も自らの血液を乳汁に変えて子どもを育てる女性へのエンパシーも尊敬もへったくれもない。産んだ後も3時間おきに泣く我が子との24時間のエンデュランスが延々と続く。稼ぐのに精一杯で家には寝に帰るだけの夫を責められず、しかし密室で1人で子育てと格闘し続けて、心に描いていたそうあって欲しい夫の役割を果たす人はいないと悟った妻たちは、その間に娘に教育をつけ、男性に期待しない人生もアリだと教えるようになった。「女性や子どもを大切にしない日本、どうぞ衰退してください。」この強烈な一言は私のセリフではなく2000年代のAERA誌のある読者投稿欄へのコメントだ。女性が子どもを産まなくなったのは、社会進出したからではなく、「女たちは人生を頼むに足る男がいないことに当惑しているのだ」と斎藤学は言った。なお、「人生を頼むに足る男」とは決して所謂勝ち組男性を指していないので誤解をされないようにお願いしたい。私は元夫にGucciのサイフを誕生日プレゼントに貰ったことがあったが、当時事情で生活費を切り詰めている中、厳しいようだがその浅薄な発想に心から失望した。女たちが何を求めているかについて、男たちのチューニングの感度はあまりにも低いかまたは遅過ぎるのである。愛と結婚が矢印で結び難くなった今の時代、もっと合計特殊出生率の下降の原因をしっかり考えて論じ切ってから着席して欲しい。

こんなんでは、出生率はもっと早くドラマティックな下降線を示しても良かったのではないか。

大叔父は脳梅毒で亡くなった。銀行の頭取の次男で慶応ボーイだったハンサムな大叔父はそれにより妻に離縁され、醜悪で悲惨な最期を遂げた。その妻は、夫の死因ゆえに日本国内での再起再婚の道を絶たれ、海外渡航自由化前の昭和20年代に、祖父の助けによりフランス留学して帰国し、身を立て、ファッションの分野の草分けとなって紫綬褒章を得た。私はその義理の大叔母の大逆転劇の影響を受けてパリで勉強した。皮肉なもので、大叔父が花柳病に斃れなければ今、私はここにいない。

昭和の昔のことではない。自分は対岸にいると思っている大人たち全員の問題だ。こういう話で水を向けると、普段気鋭の若い男性の友人たちも黙りこくる。新出のITツールやビジネスモデルの構築には詳しい君たち、将来12歳の娘や息子に、お父さんどうして子どもはセックスしてはいけないの?と聞かれた時、明確に答えられる自信はあるでしょうか?娘が自分にまさかその質問と向けると思っていない方は、子どもに生き方を示すのが親の責任、子どもたちを取り巻く現実を直視していただきたい。そもそも子どもがそういうことを親に聞けないような関係性はコミュニケ不足、コミュ力不足である。子どもたちはみんなそういう世界と隣合わせに生きている。自分の子どもに限って、は、ない。

特に、なぜかまだそう信じている人がいるが、人間が性欲を抑制できないというのは出鱈目である。人はみんなコントロールしている。その証拠に、非常に特殊な精神疾患でない限り、衝動が起きたと言っていきなり人前でマスターベーションを始める人はいない。性に関しては抑制できない、できなくても仕方がないものと教える社会がおかしい。抑制できないというのは本当ではなく、抑制すべきだと思っていないだけである。赤線を必要悪としたのも、慰安婦を用意するのも、最貧層の女性たちの生きる道はいつの世も何処にでもあると言いつつ結局は人間に抑制ができないというウソを肯定している。お膳立てするから寄って来るというが、お膳立てされても寄らない人は寄らない。大食いか少食の問題ではなく、人間の尊厳や、性愛をどう考えているか、その違いが行動を分けている。実際、上司とタイに出張し望まないのに焚き付けられた不快な気持ちを打ち明けてくれた男性の先輩がいる。彼は一晩中、ベッドにただ座って、30歳をだいぶ過ぎた東ヨーロッパの女性から子どもを故郷に残して出稼ぎに来た話を聞いて金を置いてきたそうだ。女なら誰でもいいとか、わずかの好意さえあれば可能とか、自分には理解できない、という男性だっているのだ。どういう訳か、この手のデリケートな問題を私に打ち明けてくれる男性の友人は昔から何人もいた。彼らといろいろに議論したことが今に繋がっている。

さらに、私の生徒たちが関わっている少年少女買春はペドフィリアだけが行なっているとも言えない。モア・リポートや私の友人たちの肉声を思い出す時、人間は肉欲よりむしろ行為の結果の罪の意識にアディクトしているのではないかと思った。社会的立場を持っている人が、一方で家族はじめ表面の自分を知っている人たちには絶対に知られてはならないエゲツない自分という二面性を持つことに嗜癖する。本当の異常嗜好者は小児愛を悪いと思わないし、後ろめたさもない。また、強姦はまたメカニズムが異なるが、性欲異常の結果起きるものでもない。学歴も貧富も関係ない。強盗殺人同様の極刑を貸せば減る可能性もあるかもしれないが、それとて最も行うべきは本当のそして本来の性教育だと私は思う。

ただ、ティーンエイジャーともなると、もう意識を塗り替えるのは簡単ではない。小遣いで衒示的消費をする年齢が低くなっている現代では、低年齢から金が欲しさに入り込んで抜け出せない。親から幾ら貰ってもキリがないほど消費社会が押し寄せて来る。勉学などの地味な辛抱による成功体験を覚える前にもう客を探す。そして彼女たちから上がりをピンハネしている輩もそれで生活基盤を保って産業として成立してしまって長いから、それをひっくり返してやめさせるのは容易なことではない。ジャカルタが女衒の上がりからの税金で作られた街であるというウソのような話もどこかで読んだ。性とは何か、本来は早期から自然に教えられるべきことだと思われてならないが、人類はあまりにも長いこと放縦に過ぎた。

彼女たちの長い夜は終わっていない

幸福を感じることはもっともっと他にたくさんあると提案してはみるが、あまりに若いうちに目眩く経験をしてしまった脳は、地味な折り紙や編み物をどう見るのか。厄介な仕事が増えたと不平を言うようで申し訳ない。正直言って気が重いが、私の仕事はそれでもベストを尽くして彼女たちとそれを一緒に探すことだ。私が情操教育に良いと思って映画を上映しようとすると、ムスリムの同僚は日常的な夫婦間のキスも含めてラブシーンが入っていてはいけないと警告する。「ローマの休日」も「サウンド・オブ・ミュージック」でさえもダメだ。教育が現実逃避するほど、この国の夜はエグいのだろう。隠せば隠すほど性はイケナイものだと刷り込まれ、罪の意識は大きくなり、それにアディクションする。

若くて無知で向こう見ずな連中は、どうしようもない寂しさを金や行きずりのセックスやドラッグで贖おうとしている。だが、それで心のスキマが埋められることは決してない。だから痛ましい。

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