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酒場にて

ヴィンディは都市国家トラスの郊外、港町カルーンへ至る街道沿いの小さな宿場町だ。

 その年の街道は、例年より早く訪れそうな冬の気配のために、先を急ぐ商人や旅人で賑わっていた。中原特有のみぞれ混じりの雪が降れば街道はぬかるみ、やがて本格的な冬が訪れて雪面が硬く締まるまでの間、馬車を動かすことは出来なくなる。それにそんな真冬まで待っていたら、山越えして貴重な毛皮を運んでくる北方の商人達は帰路についてしまっているだろう。

 だが、今は夕暮れ時、ヴィンディを貫く街道沿いの広場に人影はなかった。早くも降り始めた雪が広場を白く染めたために小売達は早々に露店を畳み、家のない人々は皆、町唯一の酒場宿「青海亀亭」に押しかけていたのだ。

 青海亀亭の亭主は暖炉脇に積まれた薪に腰かけて一息つきながら、数年来の酒場の賑わいを喜ぶと同時に、連日の多忙さに辟易していた。酒場が混みあっている理由は、早すぎる冬の到来のせいだけではない。数日前に通行不能だった航路が回復したため、トラス市の交易港にはそれまで足止めを食っていた商船が殺到した。そのため、市内の宿は船員達に埋め尽くされ、街道沿いの宿場町であるここヴィンディにも寝床にあぶれた商人や旅人が詰め寄せていたのである。

 泊り客の数は日に日に増え、昨日からは不足した馬房を補うために近隣の農家から厩を借り受けているほどだ。朝に出立して日帰りで引き返してくる客もいるが、長い客はもう五連泊にもなる。

 暖炉の周りには、各地から集まった商人達がそれぞれの商品を並べて売り口上を述べており、さながら大都市の交易所のような様相を呈していた。トラスの商人は細工物や香辛料といった舶来品、ドワーフの旅商いは毛皮や薪炭といった冬支度の品、海辺の町カルーンの行商人は日干しや塩漬けにした魚を値引きした額で並べている。皆、ここで商品を捌いてしまえば家路に着けると、売り急いでいるのだ。

 店内には他にも仕事を終えた近隣住民や、郊外の農園へ冬の出稼ぎに向かう農夫、トラス港へ向かう季節労働者、駅馬車の御者、遍歴職人、旅芸人などがひしめき合い、奥のテーブルには傭兵崩れのならず者たちがたむろしていた。

 暖炉の脇では長逗留の吟遊詩人のルーファスがリュートを調弦しながら、今夜はどんな歌物語で投げ銭を集めようかと思案していた。連泊の客達は彼の十八番を全部聞かせたし、似たりよったりな話には飽き飽きしている。半分近くは今夜が初泊まりの客だが、退屈な雰囲気とは伝染するものだ。

 『魔法王トラスの建国記』や『英雄王クロム』といった派手な演目はもうやり尽くしてしまった。昨夜はドワーフの客もいるからとドワーフ物の『角笛峠の戦い』を演じたが、却って彼らの興を損ねてしまった。ならば今夜は趣向を変えて、今、流行りの冒険者もの、『迷宮破りのイリム』の冒険譚はどうだろうか?

 やがて、調弦を終えた吟遊詩人はいくつかの和音をかき鳴らし、宿の亭主に目配せする。亭主は小さくうなずき返すと、酒場全体を見渡し、そろそろ商人たちに「店」を畳ませ、夕食を並べる準備をしようと腰を上げたその時だった。

 軋む音を立てて酒場の入り口の扉が開くと、外の冷気と、それに続いて薄汚れた風体のやつれた旅人が入ってきた。旅人が近づくと入り口の側にいた客たちは椅子を引いて道をあけた。その目は、まるで何年も荒野を彷徨っていたかの様な風体だったが、その旅人が荒野の人間ではないことは明らかだった。その顔は陽射しと海風によって赤く焼け切れており、その体からはほのかに潮の匂いがしたからだ。

 旅人が酒場の奥のカウンターまで歩み寄ると、陽気に盛り上がっていた客たちは一様に口をつぐんだ。男の只ならぬ雰囲気に気圧されたせいでもあるが、それ以上に彼の異様な風体のせいでもある。頭髪をすっかり剃り落としているのはヴィンディに出入りする船乗りたちに珍しいことではないが、身に着けているのは外套代わりの麻布と下穿きだけで、しかも裸足だった。ぼろ布を羽織っているために体つきは見えないが、その顔は何日も食事をしていないかのようにやつれている。頬のこけた顔は哀れを誘うものがあったが、その目はどことなく飢えた狼を思わせ、旅人に声をかけようとする者はいなかった。
「何か飲み物を」
旅人は搾り出すようにそういったが、亭主はあからさまな迷惑顔を隠そうともせず、無言で睨み返すだけだった。

 客の一人が旅人の足首にある足枷の跡に気付き、こそこそと囁きあう声が拡がるのに時間は掛からなかった。奥のテーブルにいた柄の悪い客たちは、そっと腰の武器に手をかけた。脱走したガレー船の徒刑囚を捕まえれば、一月は遊んで暮らせる報奨金が与えられる。それはこの一帯の住人ならこどもでもが知っている常識だ。 だが、青海亀亭の亭主は争いごとをー少なくとも自分の店の中ではー好まなかったので、慎重に言葉を選ぶと旅人に話しかけた。
「あんた、ここで飲み食いする金は持ってるのかい?見ての通りベッドは満員だが、酒場の床に藁を敷いて寝るなら夕食付きで半銀貨一枚、暖炉の傍で寝たければもう一枚だ。だが、その前にまず外套を脱いで左肩を見せてもらおうか」
 肩に押される焼印はガレー船徒刑囚の印であり、その者がどの船に属しているかも示している。だが旅人は、逆に外套を手繰り寄せると、意味ありげな視線を亭主に向けただけで何も語らなかった。亭主は、奥の席の客達に注意を払いながら、今度は声を潜めて言った。
「あんたは一体どこの船から逃げてきたんだ?ここにはいろんな船の乗組員がやってくるし、あんたはもうここにいる客に顔を見られちまってる。脱走した漕ぎ手を捕まえないばかりか匿ったとあっちゃあ、この店ごとぶっ潰されちまうんだ。分かってくれよ。騒ぎになる前に出て行ってくれ」
 旅人はしばしの間、俯いたまま黙っていたが、亭主にとって意外だったことに、おもむろに顔を挙げて背筋を伸ばすと、周りの客にも聞こえるほどの大声で返事をした。
「いかにも、私はガレー船の徒刑囚だった。その船はザゴートの海賊団、碧眼の船長ハスザラックの『悪魔の爪』号だ。だが、ご存知のように、長く航路を塞いでいたかの船は、悪名高き船長とその乗り手達とともに海の藻屑と化した。ゆえに、いらぬ気遣いは無用に願おう」
 その途端、話を聞いた客達は一様にざわめき出し、他の話に夢中で聴こえていなかった客達にも旅人が今語ったことを伝え合うのだった。旅人は店の雰囲気が変わることを予期していたかの様に落ち着きを払い、悠然と暖炉の前に歩を進めた。
 ザゴートのハスザラックといえば、この地に住むものなら知らぬ物とてない大海賊だ。沿岸の商港や漁師町で、かの海賊団に滅ぼされたのは一つや二つではない。被害がなかったのは、岩礁に守られたカルーンや軍港のあるトラスのような大都市、そして、ここヴィンディのような内陸の集落だけだ。
「そんな話、信じられるものか」
 暖炉脇のテーブルで成り行きを見ていた客の一人が野次を飛ばすが、横の連れがすぐに袖を引いてたしなめる。昼間からエールを飲み続けていたその客は少々酔いが回り過ぎているようだが、疑うのも無理はなかった。今までハスザラックの船に関わって生きて帰ってたものはいない。ましてや、櫂の漕ぎ手をしていた奴隷が殺されずに逃げられることなどあるだろうか。

 疑いと動揺のざわめきが酒場全体に広がり、いまや全ての客達がことの成り行きに注目していた。旅人の言葉が全くの嘘だとは限らない。なぜなら、この酒場の混雑も、他ならぬハスザラックの船が姿を消し、それによって閉ざされていた航路が復旧したことが原因だからだ。
 旅人が暖炉の前に立つと、背後で燃え盛る炎がそのシルエットを大きく浮かび上がらせた。みすぼらしかった旅人が、今では威厳ある預言者のようにも見える。
 旅人は酒場が静まり返り、全員の視線が自分に注目しているのを確認すると、良く響く声で高らかに声をあげた。
「疑うのも無理はない。お望みとあらば語って聞かせよう。かの悪魔の船の鎖に繋がれ、こうして生きて陸地に帰って来た者の話を」
奥のテーブルの何人かが小さく歓声をあげ、口笛を吹いた。他の客は警戒と期待の入り混じった顔で旅人を見る。すると、旅人は口元に笑みを浮かべ、芝居がかった仕草で羽織ったぼろ布を襟元に手繰り寄せた。
「だが、その前に何か体を温めるものが必要だな。それから舌の周りを良くするワインか何かも」
旅人が目線を落とすと、近くにいた客は我先にと席を譲って座らせた。皆、退屈な酒場の空気にうんざりしていたのだ。
旅人が腰を下ろすと、客たちはすぐに要求のものを差し出すようにと亭主に訴えた。亭主は誰がその代金を払うんだと呼ばわったが、客たちは旅人の正体について話し合うのに夢中で答えるものはなかった。亭主は肩をすくめて厨房へ向かうと、旅人のテーブルへ夕食用の山羊肉入りシチューの木椀を運んだ。

 旅人は受け取った椀を勢いよくむさぼり、亭主がいったん引き返してワインの入った角杯を運んでいく頃には椀一杯のシチューをーそれに加えて客から施されたパンをーあらかた食べ終わっていた。旅人は粗末な角杯を受け取ると、さも高価な美酒をたしなむかのように恭しくそれを口元に運び、ゆっくりと時間をかけて一息で飲み干した。
 旅人の計算された仕草によって客たちはすっかり好奇心を刺激され、これから語られる物語を待ちわびるのだった。旅人は角杯を亭主に返すと、手の甲で唇を拭いながら立ち上がり、暖炉の正面に椅子を移動させた。
「さて、どこから話そうか」
 小さな窓から射し込む西日で赤く染まり、人いきれの湿気に満ちた酒場に、大きな薪のはぜる音が響いた。
「はじめからだ。夜は長いんだからな」
 奥の席の柄の悪い客が注文をつける。旅人は小さく頷くと、自分がこの中原へ来て、ガレー船に乗り込むことになったいきさつから始めた。
 都市国家トラスを訪れた旅人はつまらぬ罪で地下牢に放り込まれ、闘技場の剣闘士奴隷となる。そこで数回戦を生き残った後、トラス水軍のガレー軍船の櫂役囚として引き抜かれ、鎖に繋がれて外海へ漕ぎ出す。そこで軍船が、ハスザラックの駆る「悪魔の爪」号と遭遇したのだ。

 旅人の語り口は粗野で不器用だったが、その話の進め方はなかなかどうして酔客達のつぼを心得ており、その不器用さは旅人自身の生き方と重なって不思議と聴き手の心を掴むのだった。
 長逗留の客達は、技巧豊かな吟遊詩人の語り口に食傷気味だったせいもあるかもしれない。何はともあれ、旅人が語るのは自分自身の生の物語であったし、その一言一言に真実を感じさせるものがあった。そして今や、暖炉の傍らに控える吟遊詩人もまた、新たな歌の題材を聞き漏らすまいと旅人の発する言葉に神経を集中させていたのである。

 はたしてトラス軍船は敗北し、旅人は「悪魔の爪号」に鎖でつながれた櫂漕ぎ奴隷となった。そうして、かの悪魔の船長の元、旅人は悪魔の船の最下層の船員となり、いくつもの襲撃と略奪に携わることとなったのだ。

ある嵐の夜の海戦をきっかけに旅人が鎖を逃れ、かの船長を打ち滅ぼすくだりを物語る頃には、西日は完全に沈み切っていた。


 いまや、酒場の灯りは語り手の背後ではぜる暖炉の炎だけだった。亭主もまたいつのまにか話に引き込まれ、ランプに火を灯して回ることなどすっかり忘れていたのだ。

「それから、私は三日三晩荒海を泳ぎ続け、ようやく陸地に辿り着いた。海岸から道のない荒野をさらに一日、行き当たった街道沿いにさらに丸一日歩き、ここへ至るというわけだ」


 もはや炎を背に浮かび上がる人影となった旅人がそう語り終えると、客達はどよめき、うろたえ、沈黙した。 

 もし旅人の話が本当なら、そんな危険な人物と席を並べていて良いものだろうか。あるいは、ハスザラックの一味がここへやってくる恐れはないのか?果たしてあの悪魔の船長は本当に死んだのだろうか?

「信じられるものか。証拠を見せてみろ」

 立ち上がった旅人がぼろ布でできた外套を脱ぎ捨てると、長い間の苦役で鍛え上げられた上肢と、その肩に押された四本指の鉤爪を象った焼印が露わになった。客たちは、息を呑んで沈黙した。この一帯の人々は死してなお、海の悪魔ハラスザックの名とその船の旗印である「悪魔の爪」に迷信がかった恐怖を抱いていたのだ。
揺れ動く暖炉の灯りに照らされ、「悪魔の爪」の火傷痕が生きているかのように揺れ動く。
その沈黙を打ち破るように、口を開いたのは、さきほど嘘を咎めた客の隣に座る男だった。男は場違いな笑い声を上げ、大きく手を叩いた。
「お見事!語り口も楽しませてもらったが、最後の大仕掛けに、かの悪魔の焼き印までも用意しているとは。その度胸は大したものだ!ハラスザックといえば、この一体では、知らぬものとてない大悪党だからな」
男は懐を探ってくたびれた小さな革袋を取り出すと、
「大方、この店の飲み代すら払えない程、金に困っていたのだろう。取っておけ!」
旅人は投げつけられた銀貨を掴み、しばし満足げに手の中で持て遊ぶと、亭主が肘をついているカウンターの上にそれを置いた。
「ともあれ、これで宿代を踏み倒さずには済んだわけだな」
そう言うと、旅人はさも嘘がばれたかのように肩をすくめておどけてみせた。亭主は始めて安心した顔を見せると、カウンターの下から空の木鉢を取り出して旅人に差し出した。
「それなら、そいつを持ってお客さん方の間を回ってくるがいい。たった今焼きあがった仔羊の炙り肉と、今夜のベッドのお代くらいにはなるだろうよ」
 旅人が言う通りにすると、木椀には泊まり賃に翌日の朝食代を加えてもまだかなりの釣りが余るほどの銀貨が集まった。客たちは皆、話の信憑性はともかく、旅人の語り口の達者さにはすっかり感じ入っていたのだ。

 翌朝、旅人は余った金で亭主から最低限の身支度品を買い付けると、他の客たちが目を覚ます前に宿を発った。亭主は別れ際、昨夜の語りについて再度、賞賛の言葉を贈ったが、用心深くも旅人の本当の正体や今後の行き先を尋ねることはなかった。旅人もまた、昨夜の仔羊の炙り肉の味に賛辞を送り、店への再訪を約束したが、それ以上のことは何も語らなかった。

 旅人は最後まで自分の名を名乗ることはなかった。だが、もし先にその名を聞いていたなら、亭主は金を求めることすらしなかっただろうし、客たちはその冒険譚の全てが真実だといわれても少しも疑わなかっただろう。

 旅人は今、魔法都市トラスを見下ろす鋸岩山地の峠道にいた。
 髪はまだ短く、顔は陽と潮風に焼かれて赤くなっていたため、勘のいい者ならば旅人がほんのひと月ほど前までガレー船に乗って航海していたことに気付いたかも知れない。だが、その髪は綺麗に整えられ、着衣は地味だが上等で、どことなく高地人の貴人の狩装束を思わせた。

 この旅人こそ、難攻不落と謳われた数々の迷宮を攻略し、トラス王立闘技場のチャンピオンシップを勝ち残り、そして、かの悪魔の船長を打ち倒してその船を大海に沈めた希代の冒険者である。だがこの後、さらなる冒険の果てに世界を揺るがし、その名を歴史に刻む運命となることを旅人自身、知る由もないのだった。

                 再掲:掌編小説「酒場にて」
                 加賀ヒロツグ/Clark & Company

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