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#9 『これからの「正義」の話をしよう』④ 国家は歴史上の過ちを謝罪すべきか?

こんにちは、ちゅるぱんです。

今週は、色々考えることがあり、なかなか本に集中できない日が続きました。朝5時に起きて乾燥した洗濯物を畳んだりしていると、読み始めるのは5時半くらい、あっという間に6時半になり、何も書けずに夫と娘が起きてくる、、、ということが続いていました。(言い訳..汗)

さて、『これからの「正義」の話をしよう』の9章、ようやく読み終わりました。この本は、他のハウツー本やビジネス書などとは全く違って、本当に深いので、読み飛ばしてどこかの章(特に、カントとジョン・ロールズの正義に関する考え方)が理解できていないと、読んでいて「???」となり、また戻る、、、という感じです。もともと哲学が好きな方だともう少しすっと入ってくるのかなと感じます。

9章のテーマ、問いも非常に興味深いです。ただ、まだ自分の理解に不十分な部分があり、以下の記録も冗長的になっているので、時間のない方は、一番下部の「ここまでで感じたこと」からお読みください。

問い:国家は歴史上の過ちを謝罪すべきか?

この問いに関する私の意見としては、「潔く過ちを謝罪すべき」と考えている。なぜなら、その方が将来的に、長期的に近隣諸国と良い関係性を築くことができるのでは?と考えているから。

この章を読むと、この私の意見では、ロジックが甘いということがわかる。
「国家は歴史上の過ちを謝罪すべきか?」の問いに応えるためには、「共同責任」と「コミュニティの要求」に関する難問を考え抜く必要があると本書では指摘している。

正統派と反対派の意見

この問いに対して正当派の意見は、

政治共同体の手によって不正に妨げられた人々を追悼し被害者とその子孫に今尚及ぶ不正の影響を認め、不正をなしたり、それを妨げるのを怠ったりした側の過ちを償うため。

反対派の意見は、

①昔の敵意を呼びさまし、憎しみを増大させ、被害者意識を深く植え付け、反感を呼び起こす。
現存する世代は、前の世代が犯した過ちについて謝罪する立場にないし、現実問題として謝罪できない。

本章では、この反対派の意見②に注目している。

この意見は、以下のような「道徳的個人主義」という考えに基づいている。

自由であるとは、自らの意思で背負った責務のみを引き受けること。他人に対して義務があるとすれば、何らかの同意ー暗黙裡であれ、公然であれ自分がなした選択、約束、協定ーに基づく義務である。

つまり、自分が「その責任を取ります」と選択しなければ、その責任は取る義務がないという考えだ。

しかし、サンデル氏は、この道徳的個人主義の自由観が正しいとすれば、公式謝罪の問題は、謝罪や連帯責任などよりもはるかに大きいという。なぜなら、道徳的個人主義の自由観は、現代政治でおなじみのさまざまな正義論に姿を現すから。サンデル氏は、この自由観には欠陥があると考えている。

この自由観を考える際に、「同意」と「自由な選択」について、過去を振り返ってもう一度考えてみると、「自己選択」の原型はジョンロックによって生み出されたらしい。この自由観はその後のイマヌエル・カントとジョン・ロールズが考える自由や正義に影響を受けている。

「カントの道徳法則」と「ロールズの正義の原理」には共通点がある。それは、自分の役割やアイデンティティ、自分を世界の中に位置付け、それぞれの人となりを形作っているものを考慮していないということだ。

正義を考える際、個々のアイデンティティを捨象しなければならないとすれば、現代のドイツ人がホロコーストの損害賠償をする特別の責任を負うべきだとか、この世代のアメリカ人が奴隷制と人種隔離政策の不正を保証する特別の責任を負うべきだと主張するのは難しくなる。なぜだろうか。いったんドイツ人やアメリカ人としてのアイデンティティから自分を切り離し、自らを自由で独立した自己としてみれば、そうした歴史的不正の賠償をする責務が他の誰かよりも大きいという根拠はなくなるからだ。

この自由観について考えるには、もう一度アリストテレスが考える正義、そしてカントとロールズが考える正義の違いに立ち戻ることになる。ここが、私はまだそんなに理解できていない。正は善に優るのか、善は正に優るのか。。。アリストテレスは、善が正より優ると考えた。つまり、「最善の生き方がどんなものかをまず知らなければ、正しい国制を構築することはできない。」しかし、ロールズはそれに反論している。そもそも、最善の生き方というのは、誰が決めるのか?「道徳的人間は、みずから選んだ目的をもつ主体である。」「善き生の概念に対して正義は中立的であるべきだ」というのがロールズの考え方である。この考え方は、「人間は自由に選択できる自己であり従前の道徳的束縛から自由であるという発想を反映している」

こうした考え方が、全てまとめて、現代のリベラル政治思想の特徴になっている。そして、「善き生の概念に対して正義は中立的であるべきだ」という考え方について、サンデル氏は以下のように欠陥があると考えている。

選択の自由はー公平な条件の下での選択の自由でさえー 正義にかなう社会に適した基盤ではない。そのうえ、中立的な正義の原理を見つけようとする試みは、方向を誤っているように私は思える。道徳にまつわる本質的な問いを避けて人間の権利と義務を定義するのは、常に可能だとは限らない。たとえ可能であっても、望ましくないかもしれない。

物語る存在、そして人間の責務

このことを説明するのに、スコットランド出身の哲学者であるアラスデア・マッキンタイアが提唱する「人間は物語る存在だ」というもので説明している。これは非常に興味深い。

われわれは物語の探求としての人生を生きる。「『私はどうすれば良いか』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語のなかに自分の役を見つけられるか』という問いに答えられる場合だけだ」
われわれは皆、特定の社会的アイデンティティの担い手として自分の置かれた状況に対処する。私はあるひとの息子や娘であり、別の人の従兄弟や叔父である。私はこの都市、あるいはあの都市の市民であり、ある同業組合や、業界の一員だ。私はこの部族、あの民族、その国民に属する。したがって、私にとって善いことはそうした役割を生きる人にとっての善であるはずだ。そのようなものとして、私は自分の家族や、自分の都市や、自分の部族や、自分の国家の過去から様々な負債、遺産、正当な期待、責務を受け継いでいる。それらは私の人生に与えられたものであり、私の道徳的出発点となる。それが私自身の道徳的特性を与えている部分もある。

つまり、自分というのは、自分が所属するコミュニティを考慮し、その中で自分がどんな立ち位置にいて、どんな役割をすべきかを考えて行動すべきか?を考えることが大切だということだと私は理解した。

「自由に選択できる自己」vs  「人格の物語的考え方」

「自由に選択できる自己」か「人格の物語的考え方の中にある自己」かどちらを選べば良いか評価をするためには、道徳的・政治的責務についてどちらがより説得力ある解釈をしているかを問うことが重要だ。サンデル氏は、同意を超越した責務があると述べており、道徳的責任には3つのカテゴリーがあるとしている。

道徳的責任の三つのカテゴリー:
1) 自然的義務:普遍的。合意を必要としない。
   例)私はあなたを殺さない
2)自発的責務:個別的。合意を必要とする
  例)賃金と引き替えにペンキ塗りに合意
3)連帯の責務:個別的。合意を必要としない。
  例)我が子を幸せにする責任。親を介護する。

1)2)はリベラル派の考え方による責務。3)は人間を物語的な考え方で捉える立場にある責務である。サンデル氏は、道徳的責任は、1)2)だけでなく、3)も加わるべきだとしている。この責任は理性的な人間そのものではなく、一定の歴史を共有する人間に対する責任である。位置ある自己をめぐる道徳的省察であり、私の人生の物語は他人の物語と関わりがあるという認識なのである。
3)の例として、私の見解で加えるとするならば、今回の新型コロナウイルスに関して武漢にいた日本人に対して国がチャーター機を手配し、帰国させるというのも入ってくるのかな、と思っている。

人間の「義務と責務」は全て「意志や選択」に帰することができるか?

リベラル派が好む「意志と同意を強調する説明」とマッキンタイアが提唱する「道徳的こういうの物語的説明」の論争の争点は2つある。一つは、「人間の自由をどう捉えるか?」ということ。二つめは、「正義についてどう考えるか?」ということ。ここを理解するには、もう少し、カントとロールズが考える正義について私なりに理解する必要がありそうだ。

ここまでで感じたこと

9章を読んで、私は今までなんとなく「自分はリベラル派だ」と思っていたし、大学時代から「私はリベラル派」であることがかっこいいと思っていた。しかし、その「リベラル派」の考え方をしっかりと理解していなかったし、「リベラル派」の考え方の欠陥が何か、「リベラル派」の考えには、コミュニティやアイデンティティを考慮する部分が欠けていたということを知った。そして、現代のリベラリズムを批判する考え方として、サンデル氏などが代表される「コミュニタリアン(共同体主義者)」というものがあることを知った。

私は、この育休期間中にどうしても今まで入りたかった会社に入りたくて転職活動をした(その会社しか受けていない)。結果、その会社に4月から入社できることになった。ここまでの正義の話で、私の行動が道徳的かどうかを考えてみると、育休中に転職活動をしたことは、サンデル氏がいう道徳的責任の「連帯の責務」において好ましくないと考える。したがって、私はこの転職に関して、嬉しい反面、前職に対しては非常に心苦しく感じた。自分は非常に不義理だと。私がした行動は、自分の意志と選択によるリベラルなものだ。連帯の責務をどこまで考えるか?考えすぎると、ものすごく足枷にも感じる。ただ、今回の新型コロナウイルスなどのように、国がチャーター機で日本人を帰国させるというものは、そうした行為を受けた人、またその行為を見ていた私としても道徳的に非常に好ましいと感じる。
来週からは、新しい会社に入社する。その会社に所属するということは、「帰属による責任」が伴うことになる。自分は、その会社の物語の一員になる。サンデル氏が言う道徳的責任を考慮するならば、私は、その会社での自分の立ち位置をしっかりと認識し、これからの意思決定や行動をすべきだと感じた。そして、サンデル氏が言う「連帯の責任」を意識すること、コミュニティの中における善を考えることは、経営を学ぶ時に出てくる「全体最適」と言う言葉にも繋がるのだろうか?と感じた。


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