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【読書】月の裏側(日本文化への視角) その8
出版情報
タイトル:月の裏側(日本文化への視角)
著者:クロード・レヴィ=ストロース
翻訳:川田順造
出版社 : 中央公論新社 (2014/7/9)
単行本 : 176ページ
著者略歴
著者レヴィ=ストロースは著名なフランスの文化人類学者で、代表的な著作は『悲しき熱帯』である。婚姻関係をはじめとする他グループとのやりとりには規則性(構造)がある、と提唱した。構造主義の第一人者でもある。残念なことに2009年に100歳でお亡くなりになっている。生まれたのは1908年。
月の裏側
長い長い紹介と感想文を兼ねた本稿はレヴィ=ストロースの日本への愛と日本への期待で始まった。最終回の今回は読んでいてアレ?と思ったこと、書き残した感じになっていることなどをつらつらと書いていく。
いうまでもなくレヴィ=ストロースは博識、博覧強記。最強すぎて本稿は取りこぼしもいいところだろう。咀嚼どころか一口も齧らず終わった項目も多いように思う。興味をお持ちになったらぜひぜひ『月の裏側』を手に取ってくださいませ。
改めて、月の裏側
地球から見える月の表側は、エジプト、ギリシャ、ローマ以来の旧世界の歴史。月の裏側は、日本やアメリカなど、ヨーロッパから見て新参な地域の歴史、を意味しているのだそうだ。
いわば月の、目に見える側 - エジプト、ギリシャ、ローマ以来の旧世界の歴史 - からではなく、月の隠れた側 - こちらは日本学者、アメリカ学者の領分です - から歴史に取り組むものにとって、日本史の重要性は他の歴史、つまり古代世界や、古典期以前のヨーロッパの歴史の重要性と同じくらい戦略的な意味を持っています。
フランス革命と職人たち
フランス革命は職人街フォーブル・サンタントワーヌから始まったという。
パリのフォーブル・サンタントワーヌ周辺やそのほかの場所では、今も素晴らしい技術が伝わっています。
本書の中で、何度かフランス革命に述べている箇所がある。日本の明治維新と比較して。あえて要約すれば、フランス革命は結局新興産業をどのように育成するか、という戦いでもあった。王政を倒さず、王様主導で産業育成されていたら、フランスはイギリスなんかぶっちぎりで追い越せたのになぁ、というところか。長くなるが引用しよう。
私は明治時代に日本で起こったことを、その1世紀前の1789年にフランスであったことと比較してみたくなります。なぜなら明治は、封建制…から資本主義への移行の時期でしたが、フランス革命は瀕死の封建制、そして有産階級の役人とわずかばかりの土地にしがみつく農民たちが生み出しつつあった資本主義、この両方を破壊したからです。もしフランス革命が上から、王に対抗するのではなく王によって - 封建制のなかで継承された特権を貴族から取り上げるが、富には手をつけないというやり方で - 行われたとしたら、貴族だけがあえて手を出していた大きな企て(資本主義)が飛躍的な発展を遂げていたかもしれません。18世紀フランスと19世紀日本は、国民を国家共同体に同化させるという同じ問題に直面していました。1789年の革命が明治維新のようなやり方で進行していたら、おそらく18世紀フランスはヨーロッパにおける日本になっていたでしょう。
つまり、フランス人識者の中には、フランス革命なんてなければよかった、と思っている人がいる、ということだ。ベルばらをはじめ、フランス革命大好きな日本人としては、複雑な心境…というところだろうか。
バロック音楽と三味線
私は三味線の音は大好きだが、残念なことに音楽自体、習慣として聴くことはない。音程のことを言われても、なんのことやらさっぱり、だ。
日本の音階は、極東の他のどの音階にも似ていないということでした…このように長音程と短音程を接近して対立させることによって、日本の音階は、人の心の動きを巧みに表現できるようになっています。あるときは訴えるような、あるときは甘美に物悲しい旋律は、それを聴く日本の伝統にまったくなじみのない者の心にも、平安時代の文学の底流の一つをなしている「もののあわれ」が音楽でも表現されているのです。
日本の音楽からも「もののあわれ」を感じている著者。また次のようにも表現している。
日本音楽には和音の体系がありません。音を混ぜることを拒否するのです。日本音楽は、そのかわりに音を混ぜないで抑揚をつけるのです。…日本の和音は、同じ瞬間ではなく時間の流れの中で生まれます。
また日本文明は音調文明である、と述べている。これはあえて言えば「言霊」に近い概念だろうか。
日本語は音調言語ではありません。けれども、日本文明の全体は、音調文明であるように思われます…経験から得られた一つ一つのデータが他の領域に共鳴を呼び起こすのです。
日本文明は「音調文明」のように思えると…共鳴、すなわち物事を喚起する力が、「もののあわれ」という謎めいた表現が暗に意味している様相の一つではないか、と思うのです。
著者はこれを「もののあわれ」ではないか、と言っているのだが、「共鳴、すなわち物事を喚起する力」ということであれば、やはり「言霊」に近い気がする。言霊の音バージョン。音霊、か。
ちょっと脱線するが、本書を読んでいると交響曲というよりはバロック音楽やバッハの曲を連想してしまう。対位法というべきか。主旋律があり副旋律と交差し和音もありながら、何度も主題が現れ消えていく。建築のように組み上げられた総体。
異国人の目を通して己を見る
調査研究や講演、観光旅行中に、著者はしょっちゅう日本人に問いかけられることになる。「日本人とは何者だと思いますか」と。
多分、欧米では「自分は、フランス人は、こういうもの、です」と自分から自分をよく知ってもらおうと、自己紹介や情報発信をするのだろう。自己から外側へと意識が向かっていく。遠心的。日本人は外側から自己へと意識が向かう。求心的。
私が日本にいるのは、人が見せてくれるものを眺めるだけではなく、私が日本人と接することで作り上げたイメージのなかで、日本人が自分たち自身を見るという機会…を日本人に提供するためなのではないか、と思った…
中国文化との違い
なぜだか、レヴィ=ストロースはちょいちょい日本文化は中国文化とはまったく違うとアピールする。ディスってる?と思わせる文章もちらほら? 考えすぎか。
中国の音楽は抑揚に乏しく、物事のはかなさや、時の残酷なうつろいの感覚を呼び起こすには、適さないように思われますけれども…
(日本の)グラフィック・アートでは、単色と線とが、対立をなし、同時に補完し合ってもいます。中国式のふんだんな複雑さからは、およそ遠いのです。ただし、ある時代、ある領域では、明らかに中国は日本の着想の源でした。
(18世紀から19世紀のフランス美術家たちに影響を与えた)日本の芸術のうちにある極めて深い何かを表明するもの…は、けっして中国のものではなく、線描と色彩が独立していること、つまり表現力豊かな線と平面的に塗られた色彩が特徴です。この相互の独立は…版画がよく表現できます。なぜなら中国の絵画は筆遣いの表現が特徴だと思われますが、木版画はもともと筆遣いを表現するのに向いていないからです。
中国の仏教と日本の仏教の違いの一つは、中国では同じ寺院のなかに異なる宗派が共存しているのに対して、日本では9世紀から、ある寺院は天台宗だけ、ある寺院は真言宗だけという具合になりました。しかるべき分離を保とうとする努力が別の分野に表れた例です…日本人には並外れたやり方で手段を節約するという性質があります。これが日本精神を本居宣長…がいうところの「中国風の仰々しい饒舌」に対立させています。この手段の並外れた節約によって一つ一つの要素が複数の意味を持つようになり…
日本料理はほとんど脂肪を使わず、自然の素材をそのまま盛り付け、それをどう混ぜ合わせるかは食べる人の選択と主体性にまかされています。これほど中華料理から遠く隔たっているものはありません。
ユダヤ人 レヴィ=ストロース
姓の「レヴィ」はユダヤ教の祭司階級であることを示している。だけれど『月の裏側』にはユダヤ人であることは一言も書かれていない。学生のころ読んだ『悲しき熱帯』には書かれていたような気がする。今時は自分の民族性を明かさないのがお作法なのか。あるいはフランス人であることに誇りを感じているのか。それこそが地球からは決して見ることのできない月の裏側であるかのようだ。
デカルト、真、善、美
【読書】月の裏側(日本文化への視角) その6で述べたように、著者は「われ思うゆえにわれあり」は日本語に翻訳不可能だろうという。
デカルトの「われ思うゆえにわれあり」は、厳密には日本語に翻訳不可能であるとさえ言えます。
この言説は私にはかなりインパクトがあった。だが道元とデカルトとは自己を疑う、あるいは否定する、という点では同じ、あるいは似ている。方向性は違うのだが。方向性の違いとは、日本が求心的であり西洋が遠心的ということ。
ですから、旧世界の両端に、批評精神の2つの形がパラレルに現れたことになります。両者は対照的な領域で力を発揮していますが、お互いに似ています。
そしてどうやら、デカルトが外に向かって遠心するためには、完全性という雛形と、神という仕組みが必要そうである。
「完全」があるから「不完全」があります。
「必然」があるから「偶然」があります。
完全なものの観念は、完全なものにしかわかりません。それでは、なぜ不完全な存在である「私」が、完全な存在を知っているのか?
「完全な存在」とはなんでしょうか?
無限・永遠・普遍・必然・全知・全能…わかりやすく表現するなら「神」のことです。
不完全な私は、完全なる存在のおかげで存在している、だから神は存在する。と結論づけます。…
デカルトは神から与えられた観念をもとに、明晰判明に認識したものはすべて正しいと結論づけました。これによって、これまで「偽」とはすべて正しいと結論づけました。これによって、これまで「偽」としていた思考や推論などへ信頼も回復します。…
デカルトは「我思うゆえに我あり」というシンプルな原理から、現代のテーマにもなり得るさまざまな論を展開していきます。
道元や他の仏教徒たちにはそういう概念上の杖は必要だったのだろうか?
それはまた、別の冒険…。
終わりに
160ページほどの本でしたが、内容が濃かったです。本当に楽しく学べました。著者のレヴィ=ストロース先生、翻訳の川田先生に感謝するとともに、読んでくださったみなさまにも感謝です。お読みくださり、ありがとうございました。
引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。
おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために
ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
読んでいない本も掲載していますが、面白そうだったので、ご参考までに。
写真を見る限り、時が止まったような職人街。ここから暴力に次ぐ暴力へと展開したフランス革命が起きたとはとても思えないような、のどかさ、だ。そういえばフリーメイソンは石工の集まり。そういうこと!?
久しぶりに読みたい方へ
レヴィ=ストロースの著作たち
方法論序説です。掲載させていただいた要約はまんが版の関連サイトから。
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