『古事記』は何のために作られたのか(現代語訳『古事記』では分からないこと 7)
■『古事記』製作過程の謎
『古事記』は、諸家に伝わる帝紀(諸天皇の一代記)と本辞(神代記と思われる)に誤りが多いことを問題視した天武天皇が、それらを精査したものを稗田阿礼に誦み習わせ、後代の元明天皇が、それを太安万侶に筆記させて完成させたものである。このことは、「序」に書かれていることなので、私がここに書かなくても知っている人も多いと思う。
ただ、この『古事記』の製作過程は、よく考えれば変である。
諸家に伝わる帝紀と本辞の誤りを修正した記録があれば、それをそのまま『古事記』とすればよいからだ。普通に考えれば、書いてあるものをわざわざ人に暗記させるのはナンセンスである。
記録された文書を残しておけば、稗田阿礼から聞いたものを太安万侶に筆記させる手間をかけなくても『古事記』は完成する。むしろ、その方がよほど効率的だし正確だ。
しかも、稗田阿礼が暗誦したものを太安万侶が筆記するという作業を加えたために、天武天皇は、生前に自分が始めたプロジェクトである『古事記』を完成させることができなかった。
この2つの謎(なぜ暗誦し筆記するという製作プロセスを取ったのか、なぜ天武天皇の存命中の『古事記』は完成しなかったのかの2つ)を解くことで、『古事記』の、『日本書紀』などの他の書物にない秘密と特徴が明らかになる。
■『古事記』は何のために作られたのか
先に2つめの謎について解く。
結論から言えば、天武天皇は、『古事記』の完成を見ることができなかったのではなく、『古事記』の完成を急がない理由があったのだ。
「序」によれば、元明天皇が『古事記』の編纂を再開させたのは和銅4年(711年)九月十八日であり、完成したのは翌年の一月二十八日である。その間わずか四ヶ月に過ぎない。もし天武天皇に『古事記』を完成させる意思があれば、生前に完成させることは十分可能だったはずだ。
そもそも、『古事記』のプロジェクトは、天武天皇が、誰かから、諸家に伝わる帝紀(諸天皇の一代記)と本辞(神代記と思われる)に誤りが多いことを聞き、その誤りを正し、後代の天皇に伝えることを目的として始められている。
後代の天皇と言っても、現代のように一夫一妻ではなく、壬申の乱のように跡目争いで死者も出ている時代である。天武天皇が、漠然と未来の天皇に伝えようとしたとは考えにくい。
当初、天武天皇の後継と見なされていたのは、後の持統天皇との子であり、681年2月に立太子となった草壁皇子である。ところが、そのちょうど2年後の683年2月に、草壁皇子の一歳年下の異母弟の大津皇子が政治参加し(始聴朝政)、草壁皇子と同等の次期天皇候補になっている。
『古事記』製作のプロジェクトが開始されたのは、草壁皇子が立太子となった翌月のの681年3月である(*1)。恐らく、天武天皇の意中の後継者は、『古事記』のプロジェクトの進行中に、大津皇子に傾いていったのではないだろうか。
もし、『古事記』は天皇にのみ伝えられるべきだと天武天皇が判断していたとすると、次期天皇が確定するまで、『古事記』の完成を急ぐ必要はない。むしろ、意中の次期天皇である大津皇子のみに伝承したいのだとすれば、大津皇子が天皇に即位する前には、『古事記』が完成しないほうが都合がよい。
大津皇子は、草壁皇子より優秀な人物だったそうだが、幼少期に母を亡くしており、政治的な後ろ盾は天武天皇のみだったらしい。
後に持統天皇となる鸕野讃良は、当時から単なる天武天皇の配偶者という立場を超えた政治的実力者であり、天武天皇も簡単には鸕野讃良(持統)が推す草壁皇子を退けて大津皇子を後継者指名できなかったのではないか。
さて、天武天皇は、685年には病気がちとなり、生前に後継者指名はかなわず、『古事記』のプロジェクトを開始させてからわずか3年後の686年に逝去している。そして、逝去直後に大津皇子は謀反の嫌疑をかけられ自害させられている。
草壁皇子はすぐには天皇に即位せず、天皇空位の期間に入っているが、これは、草壁皇子に、天武天皇の意に反して次期皇位を簒奪したという自覚があったからではないだろうか。大津皇子派の勢力への配慮や、逝去した天武天皇や大津皇子が怨霊化するのを恐れてのことだと思われる。
その間の政治の執務は、鸕野讃良(持統)と草壁皇子が共同で行っている。
そして、空位3年目の689年に、草壁皇子が即位しないまま早逝し、翌690年に、草壁皇子の母であり、大津皇子の母の妹であり、天武天皇の妻(未亡人)である鸕野讃良が天皇に即位する(持統天皇)。
■神の声を聞いた天皇
話をもとにもどせば、天武天皇にとって、『古事記』は、次の天皇に託すものだったからこそ、次の天皇を決められないうちには、『古事記』を完成できなかったのだ。
そして、そのことで、天武天皇に不都合はなかったはずである。なぜなら、稗田阿礼のあたまの中に『古事記』は完成していたからである。つまり、天武天皇の存命中に、『古事記』は書き起こすだけでいつでも完成させることができる状態にあったのだ。そうでなければ、後代になって、元明天皇がたった四ヶ月で『古事記』を完成させることは不可能だ。
天武天皇は、稗田阿礼《ひえだのあれ》を、引き出し自由な金庫のごとく、『古事記』の安全な格納場所と見なしていたのではないか。
言いかえれば、天武天皇は、文字化された『古事記』の完成を避けたのである。そこには、天武天皇の文字に対するある種の特別な感性が働いていたと思われるとともに、1番目の謎、すなわち、なぜ暗誦し筆記するという製作プロセスを取ったのか、を解くカギがあると思われる。
先ほど引用した『古事記』の「序」には、天武天皇の言葉として、「朕聞けらく、」とある。誰かが、天武天皇に『諸家のもてる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ』と助言したのである。ただ、それが誰であるかについての記述はない。
天武天皇に誰かが、天皇家以外の書物が間違いばかりであると進言し、天皇がそれに従っている。それほどの人物なのに、その記述がない。歴史資料にも該当しそうな人物は見当たらない。これは考えてみれば、かなり奇妙なことである。
恐らく、天武天皇が聞いたのは、神の声だったのではないか。
文字が発明される以前に、人は神の声を聞いていたというプリンストン大学の心理学者(当時)ジュリアン・ジェインズの「二分心」仮説がある(*2)。天武天皇は、二分心を持った人物、すなわち神の声を聞くことのできる人物だったのではないか。
『古事記』は、現存する日本最古の書物である。このことは、当時の日本では、文字の文化はまだ十分に席巻してはいないことを示すため、二分心仮説に立てば、天武天皇が神の声を聞いていたとしても少しも不思議ではない。しかも、天武天皇は、天文を好み、ご加護があるなら雷雨をやませて欲しいと天神地祇に祈ったところ即座に雷雨が止んだというエピソードのある、今で言うスピリチュアルな能力を持った人物である。
『古事記』が、『日本書紀』のように諸説併記の体裁ではなく、全体が一つの体系として整っているのも、神の声に従ったからこそとも考えられるのではないか。
さて、この手の大胆な仮説が苦手な人のために、いささか譲って、仮に天武天皇が神の声を聞いていなかったとしても、天武天皇に助言したのは、宗教的な人物であるはずだ。
なぜなら、『古事記』には当時大変重視されていた仏教色が全くないからだ。このことから、天武天皇が命じた帝紀と本辞の正すべき誤りには、事実関係もさることながら、仏教的な内容が含まれていることがわかる。つまり、『古事記』は、逆説的に仏教を、そして海外を意識した書物なのだと言える。
神道(という言葉は当時はまだ定着していなかったが)を大切にし、本居宣長の言う漢意を排すことを徹底したのが、『古事記』なのだ。
これは、ほぼ同時期に、同じ天武天皇が編纂を命じた『日本書紀』の冒頭が、ほぼ漢籍からの丸写し(*3)という手段を使って、外来の陰陽思想を表現しているのと好対照である。
現代では、「記紀神話」として同一視されることの多い『古事記』と『日本書紀』であるが、こと神話の部分に関しては、その性格は正反対と行って良いほど異なっている。
■聖典『古事記』
『古事記』本文の書き出しの一文は、「天地初めてあらはしし時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神。」である。
世界で最も有名な聖典である『聖書』の書き出しは、「はじめに神は天と地とを想像された。」である。
これらには、「はじめ」という時、「天」と「地」という舞台設定、「神」の登場という主な構成要素が共通する(*3)ことからも明らかなように、『古事記』は、聖典としての性格を色濃く持っている。
『日本書紀』は日本国の正史であるが、正調漢文で書かれ、中国政府に読まれることを前提とした海外向けアピールの側面が強い。そしてその製作過程には、多くの渡来人が関与している(*4)。『日本書紀』は、律令国家形成という日本の一大国家プロジェクトの一環に位置づけられる、あくまで律令国家を整えるための道具の一つに過ぎないのだ。
一方、『古事記』は、天武天皇の未来の天皇に向けた言わば私的なプロジェクト(*5)であり、限られた少人数だけで製作が行われ(*5)、通常の書物ではありえない、文書を一人の人間が記憶してそれを書き起こすという特異な製作プロセスを取り入れている。
実は、この奇妙な製作プロセスは、『古事記』の内容を、天武天皇が決めた後継者だけに引き継がせることを目的とした工夫のあらわれだと考えればつじつまがあう。
それについては次回書く。
◎註釈
*1 『日本書紀』の天武十年三月十七日の記述を、『古事記』のプロジェクトの開始と見る菅野雅雄の説による(「上代文学論究 巻13 講読『古事記』(三) : 「序」第二段(その2)」(菅野雅雄・2005年・中京大学))
*2 『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』(ジュリアン・ジェインズ 1976年原著発行/2005年翻訳発行・紀伊國屋書店)によれば、無文字社会では、人間には統一された自我というものはなく、「日常生活の瑣末な場面では無意識の習慣に導かれ、また、自分や他人の行動の中で、何か新しい物や尋常ではないことに出会った時には幻聴や幻視に導かれていた。」(同書p.255)という。この「幻聴」を神の声として聞いていたというのが二分心仮説である。
*3 以下に書いた。
*3 『古事記』と『聖書』の書き出しの類似点は、「はじめ」、「天」、「地」、「神」という4つの構成要素のみであり、そのことをもって『古事記』と『聖書』の書き出しを類似していると結論づけるのは誤りである。
『古事記』では、「天」と「地」が先にあって、そこに「神」が「成り、坐ました」のであり、『聖書』の先に「神」が存在していて「天」と「地」を創造したという逸話とは、「神」を軸に考えれば、正反対だと言えるからである。
ただし、「神」の定義を考慮に入れれば、別の結論を導くことが論理的には可能になるが、それでは『古事記』から逸脱してしまう。なので、『古事記』を聖なる書として扱う本稿の趣旨から外れるため、ここでは掘り下げない。
*4 『日本書紀』への渡来人の関与については、『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』(森博達 1999年・中公新書)がコンパクトで分かりやすい。
*5 菅野雅雄は、帝紀と本辞の編纂の記録は、中臣大嶋と平群子首の2名で行われたと推定しており、筆者も賛同する。(「講読『古事記』(三)」(菅野雅雄「上代文学論究」第十三号・2005年)
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