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本当は違う『古事記』と『日本書紀』の世界(現代語訳『古事記』では分からないこと 4)


■『日本書紀』の「天地開闢」は外来思想である

『古事記』の世界創生譚(世界のはじまりがどうであったかの話)を「天地開闢かいびゃく」であると、何の疑問も抱かず思い込まされている人は多いが、これは事実ではない。

「天地開闢かいびゃく」は『日本書紀』の世界創生譚であり、『古事記』には「天地開闢かいびゃく」の記述はない

日本列島に生きる人々の「やまとごころ」を最もよく伝える書は『古事記』であるという信念を持っていた本居宣長は、『日本書紀』の「天地開闢かいびゃく」を「漢意からごころ」として『古事記』の解釈にあてはめることを避けている(『古事記伝』)。

本居は、『日本書紀』冒頭の世界創生譚は、大陸からの輸入物であることを見抜いている。

国家神道に由来する「記紀神話」を、日本の古代神話だと思っている人にはショックかもしれないが、『日本書紀』の冒頭に書かれている「天地開闢かいびゃく」の物語は、漢籍(中国の古代書物)からのほぼ完全なコピーであり、最近の国文学では常識になっている(私は国文学徒ではないけれども)。

以下に、分かりやすいように、上の段を『日本書紀』、下の段を原文である漢籍、その下に現代語訳を並べてみる。

『日本書紀』 古天地未剖、陰陽不剖
『淮南子』   天地未剖、陰陽未判
(現代語拙訳)(昔、)天と地とがまだ別れず、陰と陽も分かれず、

『日本書紀』渾沌 如鶏子、溟涬而含牙
『三五暦紀』混沌状如鶏子、溟涬而含牙
(現代語拙訳)混沌としていてヒナがかえる前の鶏の卵の中身のようにはっきりしてはいなかったが、薄暗い中にきざしができていた。
 (『三五暦紀』本文は散逸しており『太平御覧』内の記述で確認できる)

『日本書紀』及其清陽者薄靡而為天、重濁者淹滞而為地、精妙之合摶易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定
『淮南子』   清陽者薄靡而為天、重濁者淹滞而為地、精妙之合専易、重濁之凝竭難、故天先成而地後定
(現代語拙訳)やがて清らかな陽の気は、たなびいて天となり、重く濁った陰の気は、滞って地となった。澄んであきらかなものはひとつにまとまりやすかったが、重く濁ったものが固まるのには時間がかかった。そのため、天がまずできて地があとからかたまった。

驚くほどの一致ぶりである。一方、『古事記』の冒頭「天地初発」は、日本オリジナルの世界創生譚である。何しろ、「初発」という言葉使い(漢字の並び)からして、漢籍にはないからだ。

では、『古事記』は、世界のはじまりをどのように記述しているのだろうか。これについては、次に書く。

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