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映画『ジョーカー』(2019年)とピエロと他力本願


アメコミ映画好きの私としては、『ジョーカー』はなんか毛色が違うなーと思って、映画館に行きそびれていたのですが、日増しに評判が高まってきたので、ほぼ上映最終日に行ってきました。


評判では、ケン・ローチ監督の『私は、ダニエル・ブレイク』のような、持たざる者の異議申し立ての映画だと聞いていたのですが、あまりそういう感想は持ちませんでした。むしろ、パンフレットに載っていた社会学者の宮台真司都立大教授のキリスト教的解釈が面白かった。宮台教授曰く、ジョーカーは堕天使。昨今の社会は天使の居場所を奪う。居場所を奪われた天使は堕天使になり、同じく居場所のない群衆が従い社会は破壊される。

私の感想はといえば、これって末法の世(仏教における世紀末)だよなあ、というものでした。ということで、日本仏教に引きつけて本作を解釈してみたいと思います。

と、書いたはなから、今回は地味だなというツッコミの念がよぎります。キリスト教的解釈はクールな感じがするのに、日本仏教的解釈と聞くと自分でも超地味に思います。仏教界はもっとビビッドに変身して欲しいですね。


---ここから先はネタバレありです。ご注意ください---

■どんな悲劇も喜劇

世の中には笑えないことが多いです。でも、アーサーには笑えないことなどありません。彼は、笑いたくなくても笑ってしまうという脳の機能障碍を抱えています。彼には、最初から笑いがビルトインされているんですね。

これは悲劇です。でも、アーサーは気づいてしまいました。どんな笑えないことも、自分にとっては悲劇ではなく喜劇なのだと。なぜなら、自分は笑うに決まっているからです。

そして、暴徒達が悟ったアーサーをまつりあげ、アーサーはジョーカーになります。暴徒の破壊行動はエスカレートし、街は地獄絵図になります。


■ジョーカーと鎌倉仏教

実は、このジョーカーと同じ構造が、鎌倉仏教に見て取れるんですね。ジョーカー的リアリズムが鎌倉仏教にはあるのです。ここでは親鸞の思想に代表させます。

浄土真宗の開祖である親鸞は、すべての人は救われると説きました。その根拠が阿弥陀仏(あみだぶつ)の存在です。阿弥陀仏は仏になる前は弥陀(みだ)という人物だったのですが、彼は、すべての人が救われなければ仏にならないと願をかけました。つまり、阿弥陀仏がいることは、弥陀が仏になったということなので、その願はかなえられているということなのです。よって、阿弥陀仏の存在はすべての人が救われる証(あかし)である。これが親鸞のロジックです。

このロジックは、阿弥陀仏なんていねーよと思ったとたんに崩れます。その裏返しが、信心です。阿弥陀仏を信じることを他力本願といいます。「阿弥陀仏を信じれば、悪人さえも極楽に行けるのだ。」というのが、有名な親鸞の悪人正機説です。

ここで考えてみて欲しいのですが、救われない状態で、すでに救いが約束されている阿弥陀仏と、笑えない状況で、すでに笑いが約束されているジョーカーと、構造はまったく同じなのではないでしょうか?

なぜ、阿弥陀仏とジョーカーとで、それぞれが誘う先が、極楽と地獄と正反対に分かれてしまうのでしょうか。


■ジョーカーの笑い

その差分はどこにあるのでしょうか。違いは「救い」か「笑い」かだけのように思えます。どうして、笑う門には福来たる、とならないのでしょうか。

答えの鍵は、『ジョーカー』の「笑い」にあります。

アーサーの笑いは、主体と切り離された笑いです。笑いたくて笑う笑いではありません。つまりそれは、個人の笑いではなく、社会に浮遊する笑いなのです。だから、アーサーの笑いは、匿名の面を求めたのです。アーサーの笑いが、笑われるための匿名の面=ピエロの面と結びついたのは必然です。


■パンとサーカス

ピエロの居場所は、本来はサーカスです。映画『ジョーカー』では、たくさんのピエロが街に放たれたとき、つまり街がサーカス会場となったときに、街が地獄絵図と化すのです。

このことは、現代的な意味を持ちます。本作の舞台は、1970年代末~1980年代初頭とおぼしきゴッサム・シティですが、それはこの映画が公開された2019年のニューヨークの寓意的表現に他なりません。セピア色(この映画のカラートーンは、ジョーカーのメイクと衣装を除いてはビビッドではありません)のゴッサム・シティは、現代に生きる我々の地獄の戯画になっています。

かつてローマの市民は、国や有力者から支給されるパンとサーカスで政治的に盲目となり、愚民に堕したと言われます。

市民革命を経た現代人は、マリーアントワネットの教えに従って、パンが無ければケーキを食べられるほどに「豊か」(資本主義の発展でケーキは安くなり、富裕層でなくても口にすることができる、特に日本のコンビニのケーキは安くて美味い)になり、サーカスを求めていたはずの市民自身が、サーカスのピエロになってしまっていたのです(「パンとサーカス」のサーカスは今で言えばカーレースや格闘技のイベントで、ピエロのいるサーカスではないそうですが)。
プロシューマー(生産消費者)という言葉が昔はやりましたが、供給側と需要側が同じになってしまっているのが現代人です。

主体を離れた笑いは、世界を地獄に引きずり下ろす。ただ、サーカスを見るだけではなく、自分がピエロになってしまえば、地獄も楽しいという構造です。


■地獄の始まりのスイッチ

さて、パンとサーカスは受け身ですが、ケーキとピエロは、私たちの主体的な選択に巧妙に偽装されています。地獄へと誘うジョーカーの笑いは、主体とは切り離された笑いなのだと気づけば、偽装は明らかです。だが、モブ(群衆)たるピエロたちは、それに気づくことができるでしょうか?

可笑しいから笑うローマの愚民から、笑えるから可笑しいはずだと再帰的に自己認識する現代の大衆へと、時代は転換(スイッチ)していきました。
マレー・ショーで、ブラウン管の向こうの視聴者に笑いを促すために、「Applause(拍手して!)」の表示でスタジオの観客が笑い拍手するシーンは象徴的です。このスイッチこそが、地獄の始まりのスイッチだったのではないでしょうか。

主体を失った笑いの招く地獄を回避するためには、主体を取り戻すしかないのですが、化粧という主体的行為によってピエロになった者にいざなわれるのは、安直にもマスクをかぶってピエロになる者たちです。
マスクをかぶる行為は、どこまで主体的行為なのでしょうか。「Applause」に呼応する人々と違いはないように思えます。
自らを主体的な行為者と確信する者は、その主体性が偽装されたものであるか否かの問いを立てることはありません。このあたりは『マトリックス』とも通底するテーマです。

遠い鎌倉時代に、南無阿弥陀仏と唱えることが極楽への切符となっていたのは、念仏の力ではなく、唱える者の主体性がゆえだったのではないかと私は思っています。世間的にはよく誤解されていますが、他力本願は主体性の教えなのだと思います。


■ピエロとポジティブシンキング

阿弥陀仏とジョーカーとで、それぞれが誘う先が、極楽と地獄と正反対に分かれてしまうのはなぜかの答えは、誘われる者たちに主体性があるかないかの違いです。

ちょっと脱線します。

ここで危ういのがポジティブシンキングです。辛いとき、笑えないことも笑ってしまおうという前向きの意識は、悪いことではないはずです。ポジティブシンキングは、主体的な思考に思えます。その意味では、南無阿弥陀仏と唱えることと近いはずです。

では、まともなポジティブシンキングに生きる前向き人間と、マスクをかぶったお手軽ピエロの暴徒達との違いは何か。それは、自分がなした行為(意図的であろうとなかろうと)によって傷つく人(直接的にでも間接的にでも)への創造力の欠落です。

他者への想像力が欠ければ、ポジティブシンキングはたちまちジョーカーの笑いと共鳴してしまう。親鸞が自力本願を批判し、他力本願を説いたのは、この点にあると私は思っています。脱線終わり。


■バットマン不在の意味

さて、本作『ジョーカー』は、富者=殺される側、貧者=殺す側=殺される側への創造力のない虐げられた暴徒という二元論的な図式で描かれています。

殺される側への創造力のある者は、ピエロにはなれません。次作がもしあるとしたら、ピエロにもなれない貧者の物語を主軸にすべきだと思います。
二元論はあまり面白くありません。二元論の出口(結末)は、二元論を立てた段階で決まってしまうからです。二元論のストーリーでは、結末は、正義が勝つか、敗北するか、決着が付かないかの三択になります。それでは単純すぎて、このような硬派の映画には相応しくないと思うのです。

そう思って、ハッと気がつきました。ひょっとしたら、現代の救いは、バットマンではなく、ロビンにあるのだと。
バットマンになれない脇役のロビンでなければ、世界は救われない。
本作は、バットマンの悪役のジョーカーの物語ですが、本作にバットマンが登場しないのは、バットマンでは本作のジョーカーを倒せないからだったのかもしれません。

宮台教授のキリスト教的解釈に触発されて、日本仏教的解釈を試みてみたのですが、どうでしたでしょうか。
人間は歳を取ると、人種を分ける特徴がどんどん薄らいでいきます。
若い頃は、はっきり区別できるアメリカ人と日本人も、後期高齢者になるとどっちも見た目が似てきます。
アメコミ映画を日本仏教的にも解釈できたということは、アメリカも日本も、ともに戦後に確立した今の体制が老化の時を迎えている証拠なのかもしれません。そんなことも考えました。

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