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日本の左翼にはひろゆきがいない

Twitterでひろゆきを見ていると、そこに群がる左翼が面白い。ひろゆきに挑んでは敗れていく、知名度の高い左翼達。敗れていくように僕には見えるが、もちろん、彼らは敗れたつもりはない。ひろゆきも左翼もお互いが、頭がおかしいですねと言って、離れていく。ただ、ちょっと考えてみると、ひろゆきの沖縄問題にしても、決して全てが間違っているわけではないし、左翼側の意見もそこまでズレてはいない。いや、左翼の座り込みなどの細かい話を掘り出していけば、彼らの主観が強すぎて、パッションでは理解できるが、論理では破綻している部分もあるなと思う。ただ、左翼の強みとしては、理論が破綻していようが、革命さえ成し遂げられれば何でもいいというスタンス(だと思うんだけど)なので、ひろゆきとは平行線を永遠に辿っていると思う。ちなみにひろゆきだって、座り込みだけで、沖縄の基地問題の負担がうまくいくなら、ここまで揶揄はしないというスタンスに僕には見える。問題は、左翼もひろゆきも何も成し遂げられていないところにある…。
 左翼の革命さえ成し遂げられれば、良いというのは合理的だが、もうそんな時代は終わったのではないだろうか。戦後、大多数の日本人は戦争に疲れ果て、右翼は解体され、マルクス経済学が日本で大流行し、左翼でないことが、今で言うひろゆき的な立場だった時代があった。日本は全体的に貧乏だったし、誰しもが戦争という傷を背負っていた時代だったと思う。しかし、今は違う。誰しもが同じような体験をしたという幻想は破綻し、他人の痛みは他人のもので、自分の痛みは自分の痛みでしかない。至極当たり前だが、しかしそれ故に、沖縄の痛みは他人の痛みはでしかなく、内地に暮らす僕らにはどうでもいいものだ。ただ、昔はそうではなかったのだ。1970年代に沖縄復帰のために、新宿でデモが起きたりと、内地の人間が沖縄(の基地のせいで苦しんでいる人)のために、立ち上がった。しかし、今はそんなことは起きないし、少し起きても規模が小さく、士気も低く、形骸化している。それの最たる原因を、ひろゆきは左翼の言ってることは感情論が大きいから、座り込みって言葉の定義から、考えてとりあえず、0日にしませんか?と挑発する。そして、我ら左翼は、いや、お前沖縄のこれまで受けてきた痛みを知らないのか?と議論が始まる。
 こうなったときに、ひろゆきはけっこう自らにとっての仕事してるなと思う。いや、偉そうに僕は、そんなこと言える立場ではないのだが…。これらの議論を一般まで広げるということは、結局左翼がずっと出来なかったことだった。というか、今のひろゆき人気はすごい。結局、敗れたように見える諸先輩方の左翼は、人気がないだけだと僕は思う。どちらの主張もほどほどに、綻びがあるからだ。いや、この世界に綻びのない主張などないだろう。しかし、この左翼の頼りな下げ無さは、人気が左翼になさすぎるのだ。昔の左翼、僕はぱっと浮かぶなら、中平卓馬、小林多喜二、チェ・ゲバラ等、魅力的な人が多かった。今、左翼の中にこのような応援したくなる人が一人もいない。だから、僕が彼らのようになりたいのだが…。いや、革命なんか起きてもどうせ、僕ら死んでしまうのだから、僕は僕の命に誠実に生きられたらいいか…。その道はどこにあるのだろうか。

作家の日記 2023.01.18.

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